パンチラには詩があるか。
たくさんあるか、
少しはあるか、
ほとんどないか。
パンチラは、
ほとんど詩を含まないけれど、
ほとんどないから、
詩が切り取られる。
空や雲や月や、
風や雨や花なら、
どこをどう縁取っても、
まるごと詩だらけで、
詩を取り出せる気がしない。
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- 2017年04月08日 21:36 |
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景色が、音を、
生み出していたのかもしれない。
景色が、音を、
消し去っていたのかもしれない。
確かなものは、池や岩で、
音は、不確かに成り下がる。
僕たちは、聞こえない音を聞き、
あるいは、聞こえる音が聞こえない。
僕たちに認識された空気の振動を、
僕たちは音と呼ぶが、
実際に空気が震えていたかどうかは、
僕たちにはどうでもいい。
実際の空気の振動は、
もはや確かめようがないことであり、
確かめても、僕たちが認識していなければ、
音とは呼べない振動になる。
僕が作り出した音でも、
それは、僕には、音としか言いようがなく、
僕が作り出した静寂でも、
それは、僕には、紛れもない閑(しずか)さになる。
事実はなく、解釈だけがあり、
音は、心許ない解釈の結果である。

http://www.mdn.co.jp/di/newstopics/30435/
「古い池です」、
「蛙が飛び込む水の音がします」、
芭蕉からの報告はそれだけである。
情報量は17音で、極めて少ない。
「閑(しずか)さです」、
「蝉の声が岩にしみ入ります」、
それ以外の報告は、
必ず誰かの虚構になる。
僕からの報告が多ければ多いほど、
必ず芭蕉のメッセージに嘘が混じる。
考えれば考えるほど、
虚偽のレポートになってしまう。
芭蕉が何を思っていたか、
なんてことは、僕には知る由(よし)もなく、
僕が、この句の意味を考えることは、
間違えることが運命づけられている。
考えるのなら、主語は僕にしなければならない。
以上の報告者は、僕である。
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- 2016年12月25日 19:41 |
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僕は、蝉時雨(せみしぐれ)の中を歩いている。
足元の岩に気を取られながら歩いていて、
蝉は視界には入らない。
せんせんせんせんせん…。
僕はその音を聞いていたのだろうか。
閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
単調で鳴り止まない蝉の音は、
容易に忘れられて、閑(しずか)さが訪れる。
僕は、岩を見ながら歩いていたことで、
聞こえていたはずの蝉の音を、
どこかの岩に、置き去りにしてきたのかもしれない。
僕たちは、部屋にいるときに、
雨の音を聞き続けることができない。
窓から外を見たときに、
雨の音を聞いていたことに気づく。
降り止まなかった雨の音が戻ってくる。
ずっと聞こえていたのかもしれないし、
聞こえていなかったのかもしれない。
僕は、蝉が鳴く姿を、
注視していたわけではなく、
蝉が鳴く音を聞いていただけだから。
景色が、音を、
消し去っていたのかもしれない。
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- 2016年12月25日 12:14 |
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古池や蛙飛びこむ水の音、
その対句として、
閑さや岩にしみ入る蝉の声、
しずかさやいわにしみいるせみのこえ、
を考える。
「蛙」と「蝉」、
「池」と「岩」、
「音」と「閑(しずか)さ」、
それぞれが対になり、
同じことを言いながら、
まるで逆の意味になる。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/sazaesan/sazaesan_cast.html
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- 2016年12月24日 12:04 |
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僕が歩いていて、
古池に行き当たる。
僕は池を見て、蛙が飛び込む音を聞く。
ぽちゃん…。
僕はその音を聞いていたのだろうか。
古池や蛙飛びこむ水の音
僕たちは、蛙が池に跳び込んだときの、
音を知っている。
人それぞれに違っていたとしても、
それが、どんな音なのかは、
それぞれに想い起こすことができる。
僕が、さっき聞いた音は、
池を見ていたことによって、
想起された音の記憶かもしれない。
僕の耳は、僕の目が連れてきた音を、
聞いていたのかもしれない。
まるで違う音だったのかもしれないし、
音など聞かなかったのかもしれない。
僕は、蛙が池に飛び込むのを、
注視していたわけではなく、
微かな水音を聞いていただけだから。
景色が、音を、
生み出していたのかもしれない。
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- 2016年12月24日 12:04 |
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松尾芭蕉が何を思っていたか、
なんてのは、僕には関係がないから、
主語は僕になる。
考えるのは僕であり、芭蕉ではない。
芭蕉の心情を考察できる人がいるのなら、
芭蕉を主語にすればいい。
まずは、
古池や蛙飛びこむ水の音、
ふるいけやかわずとびこむみずのおと、
僕が、この句の意味を考える。

http://chibimaru.tv/about/chara/
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- 2016年12月23日 20:31 |
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