スピリチュアルは、知性よりも直観に、論理よりも感性に好意を寄せる。
というか、語り得ない話をしているので、論理にはそぐわない。
例えば、あらゆるものごとには ―― イメージや思考にも、
波動があって、共鳴して引き寄せ合う、なんて理論を、
論証を要しないプリミティブとして用いたりするから、
論理の丸ごとが、語り得ない話になってくる。
考えるな、感じろ、なんていうけれど、
人は、おおよそ、自分が感じたいことを感じて、考えたいことを考える。
知ること=知識と、感じること=感情と、考えること=思考、
それらが混同されると、受け容れられる考え方は限られる。
人は、自分が受け容れたい物語を受け容れる。
努力や困難を避けて、楽ちんな物語を受け容れる。
スピは、何でも自由に書いていい。
それを、自由と呼ぶのだろう。
でも、例えば、カントなら、スピ的な自由を、自由とは呼ばない。
自由ってのは、他人が作った法則からの自由だ。
自然の法則であっても、スピの虚構であっても、
何かを引き寄せたいからって条件で、何かをさせられる、
そんなのは、自分以外の誰かが作った法則に従っているだけで、
カントに言わせれば、自由ではない、ってことになる。
他人の命令に従っているだけの他律的な生き方は、
人というよりも、家畜か奴隷の生き方だろう。
無条件に、自分の理性の命令に従うこと、
それが人の特権であり、カントは、それを自由と呼ぶ。
無条件だから、どこでも、誰にでも当てはまる法則であり、
当然、他人に説明ができるものでなければならない。
スピの言説は、自分がどれだけよく出来た家畜かを、
自分がどれだけ優秀な奴隷かを、
互いにアピっていることと等価である。

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- 2018年10月04日 19:07 |
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戸塚宏は、生理学からも、
教育学からも相手にされていないから、
「脳幹論」なんて本が書ける。
加藤諦三は、心理学からも、
医学からも相手にされていないから、
「うつ病は重症でも2週間で治る」なんて本が書ける。
スピリチュアルも、何からも自由だ。
自由に何でも書いていい。

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- 2018年10月02日 22:14 |
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努力するとか、がんばるとか、
がまんするとかって、僕も、好きではない。
暑くるしくって、ダサいと思う。
説教くさくて、かっこ悪いから、
いちいち、他人に言いふらさないで、
さり気なくやってのけたい。
それでも、誰も見ていないところでは、
独りで、みっともなくがんばっている。
努力なんて、そんなものだ。
結果に対しては、まぐれです、なんて言って、
舌を出してみせたりするけれど、
特別な何かに委ねていたわけではない。
スピ的な言説の、努力はしなくてもいい、
委ねればいい、なんてフレーズを、
どうして真に受ける人がいるのだろう。
努力なんて、他人に見せないだけなのに。
動画は削除されました
誰にも見せない 泪があった
人知れず流した 泪があった
―― 栄光の架橋/ゆず
―― 北川悠仁 作詞作曲、2004、SENHA & Co.
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- 2018年10月01日 20:31 |
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努力をしたからといって夢はかなうわけでもないけど、
いままで夢をかなえた人で努力してこなかった人はいない。
―― 百田夏菜子
こんなのは、誰にでも言えるような、
よくある台詞かもしれないけれど、
僕には、「引き寄せの法則」よりも信じられる。
少々さぼっていても、
幸運が転がり込んでくることもある。
がんばっても、報われないことも多い。
それでも、努力しなければ夢はかなわない。
ももクロの百田は、まったく正しい。
法則、なんて呼べるような、
自然科学のようなものではないんだ。

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- 2018年09月30日 00:48 |
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例えば、資格試験に合格したいのなら、
教科書を読んで、過去問を解く。
それが、合格を引き寄せる方法だと思っている。
例えば、就職したいのなら、
彼氏彼女が欲しいのなら、
英語が話せるようになりたいのなら、
速く泳げるようになりたいのなら、
歌が上手くなりたいのなら、
やせてきれいになりたいのなら、
行ってみたい場所があるのなら、
それぞれ、常識的に引き寄せる方法があって、
総じて、努力、なんて呼ばれている。
僕は、「引き寄せの法則」なんてものが、
どんなものかは知らないけれど、
それが、常識的に引き寄せる方法とは、
別のこととしてあるのなら、
努力を嫌っている、としか思えない。
他人を軽視している、としか思えない。
僕だって、あまり常識的とはいえないけれど、
それでも、常識に逆らうときにこそ、
僕は、最も常識に配慮する。
常識は、他人がいることを意識して成り立つもので、
常識に反するときには、
他人に対して論証の義務を負うから。
スピリチュアルが語り出すのは、
いつも、哲学が黙り込む地点からである。
常識に反しながら、論証を放棄するのは、
他人を馬鹿にしていることにならないか。
中でも、努力している人たちを、
馬鹿にしていることにならないか。
とりわけ、努力しても、
報われなかった人たちを。
動画は削除されました
頑張って ダメで 悩んで 汗流して できなくって
バカなやつだって 笑われたって 涙こらえて
―― MR.LONELY/玉置浩二
―― 玉置浩二 作詞作曲、1997、Sony Records
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- 2018年09月29日 21:43 |
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しなければならない、ってのが、
答のない問いに耐える力を、ってことだ。
なんて、関連づけてみるけれど、
それで合っているのかどうかは知らない。
それが正しいかどうかなんて、
確かめるすべはない。
そんな思いつきは、たぶん、
この国で、僕が最初で最後だから。
変なことを言っている気がする、
なんて、よりにもよって、
ウィトゲンシュタインに対して、
そんなおこがましいことは誰も考えないから。
テクストを日本語で織り直すときの、
翻訳の問題は、いつも必ずついてくる。
糸も違うし、織り方も違う。
いつだって、パターンがずれてくる。
訳がずれているのかもしれないけれど、
しなければならない、ってのは、
身の程を知らない僕にはちょうどいい。
僕には、説明できないことを、
説明しようとする心の内を、
自分で抑え込むことは難しいから。
僕が今でも泳げないわけは
川で溺れたあいつのせいさ
―― カリント工場の煙突の上に/玉置浩二
―― 須藤晃 作詞、玉置浩二 作曲、1993、Sony Records
語り得ないことについては、
沈黙しなければならないが、
その裏は、語り得ることなら、
語らなければならない、になる。
それで合っているのかどうかは知らない。
その裏は、なんて、よりにもよって、
ウィトゲンシュタインに対して、
そんなおこがましいことは誰も考えないから。
語らなければならないのなら、
語り得ないことを語る人たちに対して、
語り得ることを語ってみようと思う。
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- 2018年09月28日 20:41 |
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リクールか、それとも、リオタールかもしれない、
「答のない問いに耐える力を」
なんてことを言っていた。
ウィトゲンシュタインの、
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
と共に、いつだって肝に銘じよう。
でも、改めて読み返すと、
ウィトゲンシュタインにしては、
変なことを言っている気がする。
語ることができないものごとについてなら、
黙っているしかない、のは当然だ。
もとより、語り得ないのだから。
語り得ないものは、語り得ない。
同語反復で循環させれば、間違いがない。
何も言っていないから、間違えようがない。
雨が降る日は、天気が悪いんだ。
昨日の夢 オレンジ色の翳り
今日の夢 沈黙の気配示す
―― 色彩のブルース/EGO-WRAPPIN'
―― 中納良恵 作詞作曲、2001、Universal Music
説教くさく、しなければならない、なんて言うのは、
僕たちは、語り得なくても、黙っていられなくて、
ついつい語ってしまうから。
沈黙を守るためには、まずは、
語り得るものごとの限界を知ること。
そして、ついつい語り得ないものごとまで、
語ってしまいたくなる自分に耐えること。
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- 2018年09月27日 19:27 |
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哲学は、カジュアル。
カジュアルでないとしたなら、
哲学をまとって、いったい、
どこに行くつもりなのか。
哲学は、日用品。
毎日の生活で使わないとしたなら、
哲学を手にして、いったい、
どこで使うつもりなのか。
ふだん着で、ふだん使いで、
汚れても、失敗しても構わずに、
気軽にするのが哲学だ。
自分の身体で、自分の感じ方で、
自分が分かる言葉で、
自分で哲学しないと意味はない。
でないと、似合わない服を着て、
使えない道具を持って、
難解な他人の哲学に、
分かったふりをすることになる。
そして 手は探る
あなたと居た町 思い出せなくなる前に
―― のうぜんかつら(リプライズ)/安藤裕子
―― 安藤裕子 作詞、安藤裕子、山本隆二 作曲、2006、cutting edge
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- 2018年09月25日 00:03 |
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スピは、宗教、
哲学は、趣味。
どちらも、必要ではない。
なくても生きて行ける。
役に立つとか、
立たないとか、
そんなのは知らないし、
どっちでもいいし、
やれと言われても、
やらない人はやらないし、
するなと言われても、
する人はしてしまうし、
やり方を習っても、
やらなきゃできないし、
やり方を知らなければ、
いくらやってもできないし、
僕の代わりには、
誰もやってくれないし、
代わりに誰かがしていても、
僕には何の意味もないし、
何のためにもならなくても、
誰のためにもならなくても、
やめられないうちは、
続けるしかないような、
哲学は、自分と世の中について、
考える趣味である。

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- 2017年07月09日 17:21 |
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「善」とは、共同体の利益となる行為、
対して、「悪」とは、
共同体の不利益となる行為をいう。
昔からある「善」の定義だ。
そんなのは、当たりまえすぎて、
誰が定義したのかは誰も知らない。
発見したのか、発明したのか、
そんなのも、どっちでもいい。
「義」といってもいい。
「正しさ」でも、「正義」でもいい。
それらの小さな違いが、
気になる人なんて珍しい。
「善」が相対的なのは、
それぞれの共同体によって、
利害が異なるからである。
なんて簡単な理屈だろう。
「善」は、部分集合や補集合、
和集合や積集合で括られて、
「善悪」なんて、僕の身の周りにも、
いつでも、どこでも、いくらでもある。
そして、哲学は、「善悪」を考える。
複雑な、共同体の利益を逡巡している。
解決策は、両極端な2通り。
個に向かうか、全に行くか。
自分に閉じこもるか、
それとも、宇宙の果てまで跳ぶか。
どちらも現実を見なくていいから、
悟った気分が得られるに違いない。
自己閉塞に落ち込んでいても、
宇宙を夢見ることはできる。
スピは、宇宙の利益を考えているのか。
最小の真部分集合の個人なのに、
遥かに外側の宇宙の「善」など、
考えることができるのか。
もしも、スピが、個人の「善」なら、
単純に、個人の利益に埋没している。

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- 2017年07月07日 23:03 |
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