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無何有の郷、藐孤射の山 4/x


いつからか、人は、
自然を破壊してきた、らしい。
人に不都合が生じたから、
自然が破壊された、
なんて言っているだけで、
自然は壊れることなんてないのに。

自然の側からしてみれば、
自然は人のためにあるわけではないし、
破壊されても困らないし、
保護されても嬉しくもない。
人が想う破壊も、保護も、
自然はまったく意に介さない。

地球にやさしい、なんて、
恩着せがましく保護されても、
見当違いにも程がある。
人と自然を対置させて、
人と自然を切り離し、
人は、人が中心になりたがる。

自然の対義語は人為、らしい。
なるほど、ずいぶん偉くなったものだ。



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  1. 2017年10月28日 12:07 |
  2. 荘子
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無何有の郷、藐孤射の山 3/x


無何有(むかう)は、
自然のままで、
何の作為もないこと。

自然も、無為も、
環境倫理学のそれとは、
似ているけれど違う。

エコ、リサイクル、オーガニック、
ナチュラル、ロハス、などなど。
多くを共有しながら、

わずかに分岐して見えるとき、
言いたいことは、
差異に集約されている。

そして、それらと、
無何有との分岐点は、
末端ではない。

主意から異なっている。



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  1. 2017年10月26日 19:31 |
  2. 荘子
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無何有の郷、藐孤射の山 2/x


無何有(むかう)の郷(さと)は、
無為自然の世界で、
藐孤射(はこや)の山は、
神人の住む異界で、
どこかにあって、
どこにもない場所。

どこにもない場所、ってのは、
たいていは、自分の外を探しても、
ってのがよくあるパターンで、
無何有の郷も、
藐孤射の山も、
自分の心の内にある。

どこにもないけれど、
どこにでもある、
どこにもないから、
いたるところに現れる、
ってのがよくあるオチになる。
そんなありきたりな逆説を、

臆面もなく採ろうと思う。



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  1. 2017年10月24日 12:13 |
  2. 荘子
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無何有の郷、藐孤射の山 1/x


原文、
心乎之無何有乃郷尓置而有者
藐狐射能山乎見末久知香谿務

訓読、
心をし無何有(むかう)の郷(さと)に置きてあらば
藐孤射(はこや)の山を見まく近けむ

仮名、
こころをしむかうのさとにおきてあらば
はこやのやまをみまくちかけむ

―― 作者未詳、万葉集、巻十六



心を無為自然の世界に置いていれば、
遥か遠くの、神人の住む異界を、
間近に見るのだろう。

「無何有の郷」と「藐孤射の山」を、
『荘子』から引いてきて、
「藐」と「知香」で遠近を対比させる。

詠み人知らず、天平の教養人。



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  1. 2017年10月22日 20:14 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 6/6


不知、周之夢為蝴蝶與、蝴蝶之夢為周與。
周の夢に胡蝶となっても、
胡蝶の夢に周となっても、

夢を見ていたことが分かったなら、
誰が夢を見ていたのかは、
目覚めたときに、もう分かっている。

不知は、もっと不知で、
この不知は、目覚めたときに、
うろたえるほどの不知だ。

栩栩然蝴蝶也。
それは、蝶が蝶の身体を、
意識もしないで、自在に操る感覚。

不知周也。
蝶になった周は、蝶だから、
人の身体がどのようなものかも知らない。

目覚めた周は、テレビのチャンネルが、
意図せずに変わったような、
不連続の蝶と周に驚く。

連続は、不連続が定義する。
不連続は、連続が定義する。
人からは蝶が分からない。

蝶からは人が分からない。
目覚めたときの周の驚きは、
不連続なはずの蝶と人が、

連続してしまう驚きである。



    

    価値は生命に従って付いてる
    ほらね君には 富が溢れている

    ―― ありあまる富/椎名林檎
    ―― 作詞、作曲、椎名林檎、
    ―― 2009、EMIミュージック・ジャパン



ゴミの考えごとは、必ず間違いになり、
認められることもないけれど、
椎名林檎の歌とともに、

これを物化と呼ぶことにする。



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  1. 2017年10月21日 10:31 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 5/6


栩栩然蝴蝶也、
そう書くより、ほかはないけれど。
栩栩然とか、蝴蝶也とか、
そう思った途端に、
もはや、蝶ではなく周である。

自分が蝶だと思ったら、
それは人が想う蝶になる。
蝶は自分を、蝶であるとも思わない。
愉しみも、志も知らない、
知るも、知らないもない。

夢の中で、自分が何になったのかが、
自分で分かっているのなら、
自分は何にもなれていないのではないか。
人は、人が想う蝶にならなければ、
蝶になったことが分からない。

蝶の側からしてみれば、
僕たちの思惑どおりの蝶の在り方では、
あまりにも心許ないと言うだろう。
人が蝶になるということは、
自分が何になったのかが、

分からなくなることである。



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  1. 2017年10月20日 19:03 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 4/x


夢の中で蝶になって飛んでいた。
ゴミみたいに小さな話だ。
こんなゴミみたいな話なら、
ゴミみたいな僕にでも扱える。
ゴミには、ゴミしか扱えない。

神の視点、とか、
宇宙の法則、とかを語る人からは、
取るに足りないダサい話だ。
くだらない喩え話に拘泥せずに、
早く大局に行きたくなるだろう。

でも、「夢為胡蝶」は、
そのまんま、小さな話にしておかないと、
僕の手に余ってしまう。
分らないことは考えられないから、
僕は、分ることを考える。

ゴミがゴミを扱っても、
得られるものはゴミだろうけれど、
それはそれで仕方がない。
ゴミにはゴミの矜持がある。
ゴミに分からないことを考えるのは、

ゴミの視点に立てば、
ゴミの法則に照らせば、
何も考えないのに等しい。



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  1. 2017年10月19日 12:13 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 3/x


みんなに共通の価値観って、
何があるのだろう。
例えば、人との関わりが大切だとして、
みんなが、当たりまえに、
それに承認を与えているゆえに、
人は、替えが効くのかもしれない。

誰もが、同じように、
人との関わりが大切、と言うのなら、
同じような言葉を選んで、
同じような話を繰り返すのなら、
大切なはずの人との関わりも、
代替可能に成り下がってくる。

誰かの言葉の繰り返しなら、
その誰かは、誰でもいいし、
繰り返す誰かも、誰でもいい。
さらには、人でなくてもいい。
僕は、スマホを見るから、
静かにしてほしい。

髪を切っているときも、
タクシーの車内でも。



    

    僕らが手にしている 富は見えないよ
    彼らは奪えないし 壊すこともない
    世界はただ妬むばっかり



例えば、人との関わりが大切だとして、
自分の言葉で話す人なら、
代替が不可能になってくる。
精神的な富を、
分かち合ってくれる人がいなければ、
その心の豊かさは、

豊かであるゆえに、
その豊かさの持ち主を壊してしまうだろう。



    ―― ありあまる富/椎名林檎
    ―― 作詞、作曲、椎名林檎、
    ―― 2009、EMIミュージック・ジャパン


    …… なぜなら、いま彼女が身をもって知ったこと
    ―― それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、
    それを持っているがために破滅してしまうような、
    そういう富があるということだったからです。
    ―― モモ/ミヒャエル・エンデ 著、大島かおり 訳、
    ―― 2001、岩波書店



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  1. 2017年10月16日 22:02 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 2/x


関心を寄せることに、または、
時間を投資することに対して、
正当化するための十分な価値を持たないことを、
とりあえず、無為、と呼ぶとして、
独りになると、僕は無為になりたがる。
まるで役立たずで、まったく使えない。

多数に認められるような言葉を選んで、
一日のほとんどすべてを過ごしてきたのに、
独りの時間になったら、僕は、
少数にも認められない言葉を選んでいる。
世の中的には、有為ではない、無為な言葉で、
誰も幸せにしないし、少しも有意義ではない。

それは、荘子の夢と同様に、
意図を伴う変化ではない。
どちらにもなれるけれど、
なろうとしてなれるものではない。
世の中的には、有為ではない、無為な行為で、
誰の為にもならないし、何の役にも立たない。

みんなの一員である僕が独りになったのか、
独りの僕がみんなの一員になっているのか、
僕には分からないけれど、
自然にしていいのなら、
意図を伴わないのなら、
何も考えないでいいのなら、

僕は、自然に無為を選んでいて、
意図せずに選ぶものが無為であり、
無為が僕の自然である。
何も考えないでいいときに、
何の役にも立たないことを考えるなんて、
愚の骨頂、馬鹿の極み、

認められなくても当然だと思う。



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  1. 2017年10月16日 12:43 |
  2. 荘子
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夢に胡蝶と為る 1/x


夢為胡蝶 ―― 夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る


昔者、莊周夢為蝴蝶。
栩栩然蝴蝶也。
自喩適志與。
不知周也。
俄而覺、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為蝴蝶與、蝴蝶之夢為周與。
周與蝴蝶、則必有分矣。
此之謂物化。
―― 莊子/内篇、齊物論第二


昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。
栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自(みずか)ら喩(たの)しみて志(こころざし)に適(かな)へるかな。
周たるを知らざるなり。
俄(にわか)にして覚むれば、則ち遽遽然(きょきょぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶と、則ち必ず分(ぶん)有らん。
此(こ)れを之(これ)物化(ぶっか)と謂(い)ふ。


昔、私(荘周)は夢の中で蝶になった。
それはひらひらと飛んでいる蝶であった。
自身楽しい気分で、自分の気持ちにぴったり合い、
蝶になりきっていた。
(蝶である自分は人間の)周であることに気付かなかった。
やがてふと目覚めてみると、
自分はなんと驚いた様子の周である。
そこで、人間である周が夢の中で蝶になっていたのか、
蝶が夢の中で周になっているのかがわからなくなってしまった。
(世の常識では、)私(周)と蝶とには必ず区別があるはずである。
このような状態のことを物化(物事の変化)というのである。



        5月に「忘筌(ぼうせん)」で、
        でたらめを書いたけれど。
        得意而忘言と、得魚而忘筌と、色即是空 ―― 1/x

        荘子といえば、「夢為胡蝶」が定番で、
        揺るぎない鉄板の正解があって、
        それは「忘筌」の比ではない。

        僕の半端な思いつきなど、
        愚の骨頂、馬鹿の極み、
        間違いになるに決まっている。

        必ず、間違いなく。



―― 論語・韓非子で学ぶ入試漢文/高橋浩樹 著、
―― 2009、学習研究社



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  1. 2017年10月15日 18:03 |
  2. 荘子
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