>子どもたちは、幸せ、がどこかにあって、
>それを持ち帰ることができる、と思っていたのか。
僕たちは、もちろん、そこまで馬鹿ではなくて、
青い鳥を探しに行った子どもたちよりは、
幾分かは利口なつもりでいる。
しかし、幸せを、何か絶対的なものごと、
何か本質的なものごとに求めるのなら、
僕たちは、子どもたちと大差はない。
幸せには、何らかの決定的な要素があって、
それを手に入れることで幸せになれる、って思っている。
どこかに幸せになる方法があって、
それを再現すれば幸せになれる、って考えているが、
示された正解は、どこかの、誰かの幸せであり、
示された方法は、どこかの、誰かが幸せになった方法である。
それらが、自分の幸せになるとは限らない。
手ぶらで帰ってきた子どもたちは、
夢から醒めて、そのことに気づいた。

―― Giada Gatti
―― 以下、余談。
われわれはいたるところに絶対的なもの
〔無制約なもの das Unbedingte〕を探し求めるが、
見出すのはいつも事物〔Dinge 〕だけである。[1]
―― 花粉/ノヴァーリス作品集 第1巻 サイスの弟子たち・断章
―― /今泉文子 訳、2006、ちくま文庫
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- 2021年01月29日 00:00 |
- 物語論
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>物語とは、読み手の、主体的な行為である。
どんなに小さな物語でも、
物語として読むのなら、聞くのなら、
諸事件の連続を越えてくる。
物語を読むこと、聞くことは、
物語の読み手や、聞き手が、
物語の全体に意味を与えるために、
諸事件について考えることである。
物語は細部に宿るが、その全体は、
部分の総和を越える系である。

―― Giada Gatti
意味は、読み手や、聞き手の創作であり、
作者が意味まで述べてはならない。
全体の意味は、読み手や、聞き手のものである。
何がおもしろいのかを、
説明しなきゃならない笑い話なんて、
笑えるわけがないだろう。
―― 以下、余談。
…… 歴史家というものは、当然、
詩人でもなければならないと思われます。
さまざまな出来事をしっくりと
結びつける件(くだん)の技法に習熟しているのは、
もっぱら詩人だけでしょうからね。
詩人が語る物語や寓話のなかに、
生の神秘な精神〔霊〕を感じとるかれらの
繊細な感覚が息づいているのに気づいて、
ひそかな喜びをおぼえたものです。
かれらの語るおとぎ話のほうが、
しかつめらしい年代記よりも
ずっと真理が含まれています。
たとえその登場人物や運命が
拵(こしら)えものであったとしても、
それが拵えられたときの思いは、
真実で、自然なものです。
わたしたちが自分の運命を重ねてみる登場人物が
実在したかどうかは、おとぎ話を楽しんだり、
そこから教訓を得たりするうえで、
ほとんどどうでもよいことなのです。
―― 青い花/ノヴァーリス作品集 第2巻 青い花・略伝
―― /今泉文子 訳、2006、ちくま文庫
ちくまの訳、「真理」よりも、
僕なら、岩波の「真実」がいい。
歴史は、主観的なものである。
>真実は、どこにも保存されていない。
>たとえ、記録があったとしても。
>真実とは、事実に対する解釈である。
…… 歴史家はどうしても
詩人でなければならないように思われます。
多くの事件をたくみに結びつける技術を
よく心得ているのは詩人だけですから。
私は詩人の作る物語や寓話に、
人生の神秘な生命を感ずる繊細な感情をみとめて
ひそかに満足の感じを持っていました。
詩人の童話には、学術的な年代記よりも、
多くの真実がふくまれています。
その中の人物や運命は作為であるとしても、
作為する精神は真実です。
我々は作中の人物の運命のうちに
我々自身を感じるものですが、
その人達が実際に
過去に生存していたかどうかということは、
我々を楽しませる上には
いわばどうでもよいことなのです。
―― 青い花/ノヴァーリス 著
―― 青山隆夫 訳、1989、岩波文庫
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- 2021年01月27日 00:00 |
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>そもそも、悲しみ、なんてものは、
>一つの同じ意味には纏(まと)められない。
悲しみも、一つではなく、
人の数だけあっていい。
王妃の悲しみは、かつてのように、
散財できなくなった悲しみなのかもしれない。
権力が弱められた悲しみ、
他人から承認されなくなった悲しみ、
要求が通らなくなった悲しみ、
借財や、保証が制限された悲しみ、
そんな悲しみが積み重なって、
死にたくなったのかもしれない。
そんなのは悲しみと呼ばない者もいる。
逆に、そんな悲しみしか知らない者だっているが、
しかし、そんなのが悲しみなら、
悲しみは、容易に怒りに変換されそうだ。
王妃は、心の中で、亡き王に、
舌打ちをしている自分を見つけるだろう。
それだって、王妃と、一部の読み手にとっては、
悲しんでいることには変わりはない。
ほかの悲しみを知らないのだから。

―― Giada Gatti
―― 以下、余談。
誤った信念や見解はみな ――
目的と手段の取り違えに由来する。[44]
―― 信仰と愛、または王と王妃
―― /ノヴァーリス作品集 第3巻 夜の賛歌・断章・日記
―― /今泉文子 訳、2007、ちくま文庫
情熱を陶冶する ―― 情熱を手段として用いることによって、
また、たとえば愛する人の自我との
緊密な結びつきといった美しい観念の媒体として、
情熱を自由意思で維持することによって。
怒りのたぐいは、礼を失した不作法なもの ――
真に人間的な倫理的作法の欠如 ―― である。[209]
―― ノヴァーリス作品集 第1巻 サイスの弟子たち・断章
―― /今泉文子 訳、2006、ちくま文庫
…… ―― つまり、われわれは、なにをいかに為すのかを知り、
知っていることを知っているように為したいのである ―― …… [49]
―― ノヴァーリス作品集 第3巻 夜の賛歌・断章・日記
―― /今泉文子 訳、2007、ちくま文庫
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- 2021年01月26日 00:00 |
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ノヴァーリスの小説「青い花」には、
詩について、詩人について、
説明したい、伝えたい、
って思いが充満している。
もとより、説明したい、ってのは、
説明できない、って気持ちから生まれる。
そもそも、伝えたい、ってのは、
伝わらないことだから、伝えたい。
おおむね、言語の不自由さを、
跳び越えようと試みるのが詩で、
そんなものについての主観的思考の説明など、
おおよそ、理解されるとは思えない。
自分の深層と表現を一致させて、
考えや想いを、読み手に蘇(よみがえ)らせることなど、
最初から、失敗することが目に見えている。
言いたいことは、いつだって、
もとより、うまく言えないことである。

―― Giada Gatti

跳び越えようとする試みは、絵画でもいい、音楽でもいい。
―― 以下、余談。
…… 絵画と素描はいっさいを平面に ―― 平面現象に ―― 置き換える。
音楽はいっさいを運動に置き換える。
詩はいっさいを語と言語記号に置き換える。[582]
―― ノヴァーリス作品集 第3巻 夜の賛歌・断章・日記
―― /今泉文子 訳、2007、ちくま文庫
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- 2021年01月24日 00:00 |
- 物語論
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