「文化資本」 …… なぜそう名付けたか。
それは、階層構造やそれぞれの界の中で、
資本として機能するからです。
資本とは何か。
それは投資され、増殖され、蓄積されます。
そして所有する人々に「利得」をもたらします。
音楽を聴くこと、絵を所有すること、
映画を見ること、外国語を習うこと。
それだけでなく、「よい大学」に行くこと、
上流階級のマナーを身に付けること。
すぐには役に立たないような
「高級な」教養を身につけること。
これらはすべて、投資され、蓄積され、そして
利得をもたらす資本の一種なのです。[p65]
…… 家庭や学校でこのような上流階級や
中産階級のハビトゥスを植え付けられた場合、
それはその後の人生において
非常に価値のある資本として、
その行為者にとって有利に働くでしょう。
ですから文化資本という概念は、
趣味や文化的表現についてだけ
言っているのではありません。
むしろそれは、ある意味で
「資本という側面から捉えられた性向」
でもあります。[p66]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
多くの階層を行き来して、多くの界に身を置く、
ブルデューは、そんな性向は考えないのだろうか。
文化資本が、階層構造や、それぞれの界の中で、
資本として機能する、と言うのなら、
多くの階層構造や、多くの界の中で機能できるほうが、
資本としては、当たりまえに価値がある。
自分と異なるものごとに対する興味は、
おそらく、人が本来的に持っている性向で、
ハビトゥスが固まっていない若者なら、多様な、
自分と異なるハビトゥスに対して興味を持つはずだ。
一方で、ハビトゥスが固定された老人なら、
もう、自分と異なるハビトゥスを理解できない。
ハビトゥスは、自分の人生の履歴、蓄積だからである。

もしも、人生、ってことに、或いは、
幸せ、ってことについて、一つの考え方を示すとしたなら、
多様なハビトゥスを身体化させることで、人生を豊かにし、
幸せを見出す可能性が広がる、ってことになる。
差異化、正当化、否定、嫌悪、卓越化による闘争で、
他人の人生や、幸せを踏みつけにしなくても。
よくなくても、上級でなくても、高級でなくても、
というか、そんなマッピングはすぐに書き換えられる。
上とか下とか、勝ち負けとか、
そんなのは、兵(つわもの)どもが夢の跡、である。
石碑さえ建たない古戦場には、
見渡す限り、夏草が生い茂っている。
ハビトゥスが、日を追うごとに、
変わりにくいものへと変わるのなら、
ハビトゥスとは、どうしようもなく不自由なものだ。
絶えず、聴くこと、所有すること、見ること、習うこと、
常に、他人と関わって、教養を身につけること、そうやって、
ハビトゥスを増やしながら、外に押し広げながら、
ハビトゥスから逃げなければならない。
Every single one's got a story to tell, Everyone knows about it
From the Queen of England to the Hounds of Hell
―― Seven Nation Army/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2003、V2 Records
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- 2021年03月08日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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連載が30回を超えて、もうそろそろ終わってくれ、
って感じのブルデュー「ディスタンクシオン」は、
あと3回で終わりにする。
もう3回しかない、と思ってほしい。
まだ3回もあるのか、ではなくて。
そもそも文化とは何でしょうか。
これまで、人類学や社会学の
さまざまな研究者たちが、
さまざまに定義をしてきました。
これらに対し、ブルデューの発想は
極めて特異なものです。
ブルデューは、行為者が身につけた文化は
資本として機能すると考えて
「文化資本」という概念を創出したのです。
文化資本とは、経済資本と対比させることで
社会や界の横軸を描くための概念です。
ハビトゥスに近いものでもあるのですが、
もう少し具体的で、それは文化財、教養、
学歴、文化実践、文化慣習、
あるいはブルデューが言うところの
美的性向などを指します。
美的性向とは、美的なものを美的なものとして
評価する傾向性や能力です。
絵を見てその美しさがわかるかどうか、
音楽を聴いてその美しさがわかるかどうか。
ブルデューはそうした
美を受容する能力を含めて、
文化資本という名前を付けました。[p65]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
絵を見て、音楽を聴いて、文章を読んで、
その美しさがわかるかどうか。
てっとり早いのは、他人の批評ばかりしていないで、
どうせ趣味なんだから、下手でも何でも、
自分で作ってみれば分かるんだ。
僕は、高校の頃は美術部で、
大学に入って、パース描きのバイトをしていて、
幼稚園の頃からピアノ、中学生からはギター、
ライターは仕事の一部で、それでも飽き足らず、
ほとんど毎日、こんなブログを書いている。
その程度の、取るに足らない真似ごとでも、
自分で作ってみれば、少しは分かることがある。

例えば、自然の風景が描かれた絵が美しい、とか、
孤独を感じさせる絵が好き、とか、
そんなのは、自然や孤独のコレクターで、
美的性向、なんてのとは別のことらしい。
何について描くのか、は等価で、上も下もない。
どう描くのか、が表現で、
それは描くのと同時に、表わされ、現われる。
例えば、ジブリの映画について書く、或いは、
カウリスマキや、アンダーソンの映画について書く。
何について書くのか、は等価で、上も下もない。
どう書くのか、が表現で、
それは書くのと同時に、表わされ、現われる。
何について描くのか、何について書くのかは揺らいでもいい。
どう描くのか、どう書くのかを揺らさない。
I hit myself with a stone, Went home and learned how
To clean up after myself
―― Icky Thump/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2007、Warner Bros.
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- 2021年03月07日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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…… いわゆる「現代アート」というものがありますが、
非常に難解で、わかりにくいものばかりです。
すでに「絵」でも「彫刻」でもないような、
一見しただけでは「作品」であることすら
わからない作品がたくさんあります。
なぜそんなにわかりにくくなっているのでしょうか。
あくまでもブルデュー風の解釈ですが、
それは現代アートというものが
他のジャンルから独立したものではなく、
たとえばフランス印象派絵画のような、
もっとも値段も高くて
社会的権威付けもされているジャンルへの
象徴闘争として構築されているからです。
わかりにくい作品というものは、
言い換えれば、「わかりやすい作品への抵抗」
としてつくられているのです。
ですから逆に、ゴッホやピカソのような、
すでに十分権威付けられていて、
途方もない値段がついている、
もっとも象徴的な利得を多く所有している作家や
作品に対する反抗なのだということが理解できれば、
現代アートの難解な作品も、
とたんによくわかるものになります。
いずれにしても、文化的表現というものは、
既存の枠組みや方法論を根底から疑い、
それとは異なるアプローチをとることで、
界に自身をマッピングし、
自らの地位をすこしでも押し上げるための
象徴闘争をしているわけです。[p55-56]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版

現代アートは、ロックに表現されたもの。
喩えではなく、副詞っぽい意味での、ロックに、である。
クラシックは重厚で美しく、ロックは軽薄で汚い、
って喧伝したのは、ロックの側だろう。
クラシックを、分かりにくいものに仕向け、
価値が高いものに仕立てたのは、ロックである。
ロックは、軽薄さと汚い音をアピった。
重い音楽と軽い音楽、古い音楽と新しい音楽、教養と娯楽、
基点を見つけて、軸を立てた。
対立軸の対蹠点に自らを置いて、
Roll Over Beethoven、敵とみなして、ぶっ飛ばしにかかる。
もちろん、ベートーヴェンには、少しも、
ぶっ飛ばされる筋合いはない。
Roll over Beethoven
They're rocking in two by two
―― Roll Over Beethoven/The Beatles
―― Chuck Berry 作詞作曲、1956、1963、Parlophone
We all need to do something
Try and keep the truth from showing up
―― Blue Orchid/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2005、V2 Records
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- 2021年03月06日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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趣味(すなわち顕在化した選好)とは、
避けることのできないひとつの差異の
実際上の肯定である。
趣味が自分を正当化しなければならないときに、
まったくネガティヴなしかたで、
つまり他のさまざまな趣味にたいして
拒否をつきつけるというかたちで
自らを肯定するのは、偶然ではない。
趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、
あらゆる規定はすなわち否定である。
そして趣味 goûts とはおそらく、
何よりもまず嫌悪 dégoûts なのだ。
つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、
厭わしさや内臓的な耐えがたさの反応
(「吐きそうだ」などといった反応)
なのである。
「内臓的な耐えがたさ」はさすがに
言い過ぎだと思いますが
(ブルデューがよく批判される所以(ゆえん)です)、
すべての趣味に対して
寛容な人がいないのも事実でしょう。
「これはいい」と判断を下す際には、必ず
「あれは駄目だ」という判断が伴うのです。[p44-45]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
>そして趣味 goûts とはおそらく、
>何よりもまず嫌悪 dégoûts なのだ。
goûts は、dégoûts によって定義される。
おそらく、誇張ではなく、言い過ぎでもない。
ブルデューのハビトゥスは、異質なハビトゥスに対して、
吐きそうなくらいの嫌悪感を持つのだろう。
ブルデューには、異質な者たちとの調和を図り、
コミュニケーションを成り立たせようとするような、
そんな寛容なハビトゥスがなく、
求められているのは、差異化であり、
否定と自己正当化と嫌悪、断絶と不寛容、
仲間内だけで通じる言葉による闘争である。
闘争も、強調ではなく、言い過ぎでもない。

ここで重要なのは、
趣味に関する「いい/悪い」の判断は、
単純な記号のレベルではなく、
自分の生き方そのものが関わっている点です。
なぜならば、私たちは
ハビトゥスによって方向づけられているため、
私たちが好きになる音楽、映画、絵画、
食べ物、服装などには、
共通の傾向性があるからです。
そして同時に、すでに述べたように、
そのハビトゥスによって私たち自身が分類され、
一定のクラスターを形成してしまうのです。
ですから、自分が好きな映画作品を
他者に否定されると、
自分が好きな音楽も絵も食べ物も
連鎖的に否定される可能性がある。
ひいては自分そのものを
否定されることにつながるわけです。[p45-46]
なるほど、いい/悪いの判断は、ひいては、
その人の生き方に対する肯定/否定につながる。
そんな傾向は認めてもいいけれど。
僕なら、生理的な嫌悪感だけで、
その人を否定するのは純朴に過ぎると思う。
もちろん、いい/悪い、好き/嫌いは言ってもいい。
けれども、いい/悪い、好き/嫌いだけで人を分けて、
それで人を判断しようとするのなら、
ブルデューは、間違いなく、狭量に過ぎる。
音楽や、絵や、食べものならそれでもいい。
しかし、いい/悪い、好き/嫌いだけでは、
必ず、人の意味が足りなくなってくる。
音楽や、映画や、絵画や、何でもいい、
どれだけ連鎖的に手繰り寄せても、人にはならない。
食べものや、服装なんて、人に比べたら、
少しも意味が書かれていないと思われる。
She's in love with the world, But sometimes these feelings
Can be so misleading, She turn and says "are you alright?"
―― Fell in Love with a Girl/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2002、XL Recordings
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- 2021年03月03日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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それにしても「闘争」という表現は
ちょっと強すぎますよね。
たとえば私は、誰かに勝とうと思って、
あるいは自分の「趣味の良さ」を
周囲にアピールしようと思って、
グレン・グールドを聴いているわけではありません。
彼のピアノが純粋に良いと思うから聴いているのであって、
いきなり横から「お前はそれを聴くことで、
他人に差をつけようとしているのだ」と解説されると、
大きなお世話だと反発したくもなります。
ブルデューの理論で、おそらく
もっとも批判されるのがこの点でしょう。
しかし、ブルデューは、たとえば正統的作品は
「すべて、それ自身を知覚するための規範を
押しつけようとする傾向を
実際にもって」いると述べています。
つまり私たちは、自分が持っているハビトゥスや知覚様式、
あるいは自分の「ポジション」の価値を押し上げるために、
趣味を通じて価値観の押し付け合戦を
やっているというのです。[p42]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
喩えではなく、闘争めいてくるのは、
例えば、ガチオタたちのオタク語り。
でも、お互いに、相手の話を聞いていないし、
独りごとのように押しつけ合って、
関係性のために会話があるわけではないから、
闘争にもならない気がしてきた。

ブルデューによれば、数ある音楽のなかでも、
たとえばグレン・グールドのピアノが良いと
判断することは、必ず
他者に対する差異化や卓越化
(ディスタンクシオン)の動機が含まれます。
ブルデューはこれを「象徴闘争」と名付けました。
象徴をめぐる闘争ですから、
勝ったからといってお金が儲かったり、
実際に権力を得たりするわけではありません。
シンボリックな利益をもとめて闘争するのです。
つまり、人がなぜ好き嫌いの
判断をするかと言えば、
自分のハビトゥスの優位性の
押し付けをやっているからである。
それがブルデューの説明です。[p42-43]
それとも、成績とか、部活とか、恋愛とか、
多様なフィールドでの闘争を放棄した中二病。
或いは、あらゆる闘争に、ことごとく敗れて、
趣味の良さをアピるくらいしか戦場を持たない人。
そんな人たちの闘争心は半端ない。
ポートフォリオを組めないから、なけなしの、
持ち金のすべてを賭けてくる。
And when I wake tomorrow, I'll bet, That you and I will walk together again
I can tell that we are going to be friends
―― We're Going to be Friends/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2001、Sympathy for the Record Industry
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2021年03月02日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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芸術、学問、スポーツ、政治、文学のように、
小さなものから大きなものまで、
この社会にはたくさんの界があります。
それぞれが微妙に重なりあいながらも、
界というものは相対的には自律的な存在です。
そこには独自のゲームがあり、独自の「賭け金」
(ブルデューがよく使う言葉です)があり、
独自の判定基準があります。
個人の側から見た場合の
日常的実践を説明するための概念である
ハビトゥスに次いで重要なのが、
この界という概念です。[p41]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版
学問、文学、芸術、小さなメインカルチャーから、
ゲーム、漫画、流行りの歌、アプリ、SNS、
恋愛、仕事、ファッション、グルメ、お笑い、
大きな賭け金が動くサブカルまで。

ブルデューによれば、
人びとの行為には「闘争」が伴います。
人があることをするとき、なぜそれをするのか。
それは、もっとも広い意味での
「利益」を得るからだ、というのです。
私たちはこの、非常に広い意味での
―― それこそ、自らを犠牲にして
他人に尽くすことまでも含めた ――
利益をもとめて行為をしているのです。
そしてそれは、音楽の演奏や映画の鑑賞でも
同じだとブルデューは言います。[p41-42]
持ってしまった、優しさ、でさえ、
伝わらないと分かっている人には伝えない。
僕なら、それを、最も伝わりそうな人に伝えるし、
伝わったときの効果が、最も大きい人に伝える。
リソースは有限であり、機会費用を考えれば、
反故にされる優しさは損失になる。
For me to think childish thoughts like these
But I'm so tired of acting tough
―― Hotel Yorba/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2001、XL Recordings
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- 2021年03月01日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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ブルデューによれば、私たちの好みは
家庭や学校を含む
社会生活において培われたハビトゥスによって
方向づけられ、規定されています。
そしてこのハビトゥスによって、
私たち自身が、ある種のクラスターに
分類されていきます。
ハビトゥスは人々の行為や感受性を、
いわば個人の側から分析するための概念です。
それでは、同じようなハビトゥスの人々が
自らを分類しながらクラスターを形成していく様を、
「社会の側から」見たとき、
それはどのように見えるでしょうか。
おそらくそれは、
さまざまな座標軸によって構成される、
ひとつの「空間」のように
見えるのではないでしょうか。
そして私たちは、この空間のなかで、
お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、
何らかの「ゲーム」に参加しているのです。
ブルデューは、私たちが
ゲームに参加しているこの空間のことを、
「界」と呼びます。[p40-41]
―― 100分de名著、2020年12月、ブルデュー、ディスタンクシオン
―― 岸政彦 著、2020、NHK出版

たかが、趣味の話で、たいそうな、
って、僕だって、そう思う。
『ディスタンクシオン』のテーマを大まかに言えば、
趣味とは何か、文化とは何か ――
趣味や嗜好(しこう)という個人的な領域が、
いかに社会と結びついているかです。[p5]
でも、ハビトゥスは、僕の傾向性、性向、
僕の行為や感受性までも、その射程に収めている。
…… ハビトゥスとは私たちの評価や行動の
さまざまな傾向性のことであり、
同時にそれらを生み出す原理のことです。
また、それは一回性のものではなく持続性があり、
異なる分野においても
同じ傾向を示す(移調可能)と言っている …… [p32]
僕の与り知らない射程まで、
ハビトゥスが照射するらしい。
私たちはハビトゥスによって
趣味や好みを選んで(分類して)います。
と同時に、私たちはハビトゥスによって
分類される存在でもあります。
ハビトゥスの側から見ると、
ハビトゥスが人を分類していくのです。[p38]
人生の丸ごとがかかっているような、
ハビトゥスのバトルフィールド、
「界」に踏み出してみる。
ハビトゥスとは何でしょうか。
それは、家庭や学校のなかでたたき込まれた
性向、態度、傾向性です。
つまりそれは、それまでの人生の履歴、
蓄積なのです。[p85]
Every single one's got a story to tell, Everyone knows about it
From the Queen of England to the Hounds of Hell
―― Seven Nation Army/The White Stripes
―― Jack White 作詞作曲、2003、V2 Records
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2021年02月28日 00:00 |
- ブルデュー、ディスタンクシオン
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