オヤジといえば、
ハゲで、メタボで、ダサくて、
小汚くて、くさい。
自己管理の失敗例を、
もれなく取り揃えている。
人は外見で判断できないが、それは、
人は外見で判断できることの逆説に過ぎない。
女子なら、誰もが、
人は外見で判断されることを知っている。
身体は、人格の表れである。
自分の身体は、
他人からの評価や価値の対象であり、
自己評価は、他人に依存する。
ヘア、メイク、ファッションとともに、
それらは、社会的な記号である。
駄洒落は、自分の心も身体も、
他人に価値を認めてもらうことが、
期待できないオヤジから発せられる。
社会的な記号性を失った疎外感、
それは、そのまま駄洒落となって表れ、
駄洒落は、社会的な記号性を失い、
他人から疎外されることになる。
しかし、その意識がないゆえに、
オヤジは駄洒落を言い続け、
そして、それゆえに、また、
駄洒落が疎外されることになる。
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- 2017年01月21日 22:03 |
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僕たちは不都合が起きたときに、
悪者を見つけたくなるけれど、
悪者は、駄洒落だろうか。
駄洒落とオヤジが、
共犯関係にあるとすれば、
主犯は駄洒落だろうか。
駄洒落を主犯に仕立てれば、
駄洒落を言うオヤジは、
かろうじて自分を守れる。
駄洒落を言うから、
つまらないのであって、
自分がつまらないわけではない。
自分が否定されることは、
誰だって耐えられない。
そうなる前に、替え玉を差し出してくる。
しかし、例えば、銃に置き換えるなら、
人を傷つけるのは、
トリガーを引いた人である。
銃でもなく、銃弾でもなく。
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- 2017年01月19日 17:12 |
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駄洒落を言うオヤジは、
何も考えていない。
おもしろくない上に、品位を損ない、
他人を困惑させて、嫌われる。
考えているなら、
そんな割に合わない行為はできない。
オヤジは疲れている。
ぐだぐだに疲弊して弱っている。
メタボで疲れやすい身体に、
心が共鳴して駄洒落が生まれる。
もっと気のきいたことを言いたいのに、
駄洒落くらいしか浮かばない。
疲弊した身体は、
疲弊した心を求める。
傷ついた心が、
傷ついた身体を求めるように。
口走ってしまった駄洒落は、
リストカットのように切ない。
駄洒落は、少しの後悔と、
自分の心がまだ死んでいないこと、
生きていてることの再確認である。
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- 2017年01月16日 19:23 |
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笑えないだけなら、
それは、おもしろくない、にしても、
つまらない、に振れることはない。
何ごともなく、通り過ぎればいい。
わざわざ嫌うことはない。
駄洒落は嫌われている、と思う。
僕でなくても、多くの人たちが、
駄洒落はつまらない、と言うだろう。
駄洒落には、すでに、
つまらないという意味が含まれている。
なのに、まだ駄洒落を言う人たちがいる。
もういい加減にしてほしいのに。
駄洒落を言うことも、それを聞くことも、
おもしろい、と感じる人たちが確かにいる。
その典型は、子供とかオヤジとか。
だから、構造は逆なのかもしれない。
子供はさておき、オヤジがつまらないから、
彼らが多用する駄洒落つまらなくなる。
オヤジが嫌いだから、
彼らがおもしろがっている駄洒落が、
訳もなく、不愉快になる。
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- 2017年01月13日 22:36 |
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駄洒落はおもしろいか、つまらないか、
そんなことを言い争っても、
たぶん、どうしようもない。
何がおもしろいかの判断の基準は、
世の中からは、とっくに失われている。
かつて、自明なものとして、
信じられてきた笑いのパターンは、
ことごとく破壊されている。
世の中のすべてにおいて、
絶対的におもしろいものはない。
正しい笑い、などというものはなく、
誰でも、いつでも、いつまでも、
笑い合える価値を保ち続けるものはない。
おもしろさも、つまらなさも、
一様に無価値であり、
おもしろさ、とは虚無的
―― ニヒルである。
世の中には、本来、
おもしろさなどないのだが、
僕たちは、形式的な対立を作り出して、
あえて対立させることで、
おもしろさを決めて行く。
僕たちは、失われた価値を埋め合わせるために、
その対立を信じて、おもしろいとか、
つまらないとか、言い合っている。
例えば、僕は、「笑点」を観ても、
笑う気にはなれないけれど、
笑わないことが、
僕のおもしろさを決定づける。
失われた価値なら、肯定はできない。
「笑点」を対立させて、否定することで、
やっと立ち位置が定まってくる。
おもしろさ、とは冷笑的
―― シニカルである。
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- 2017年01月13日 22:34 |
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この辺りで、結論が来ている。
考えても、答は出ない。
駄洒落を言っている人たちは、
駄洒落を自分で定義することはない。
ニヒルも、シニカルも、他人の気持ちでさえ、
何も考えずに言っている。
駄洒落を他人に押しつけるには、
それを正当化する理由が欲しくなるが、
理由が欲しくて考えるのは、
押しつけられた側である。
駄洒落を対象にして近づこうとすれば、
駄洒落からは離れてしまう。
考えれば考えるほど、答から離れて遠くなる。

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- 2017年01月10日 12:12 |
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駄洒落は、表さなければ駄洒落ではない。
その表現を、許容することで駄洒落になる。
駄洒落とは、誰もが思いつくが、
誰もが思いつくゆえに、
誰も発表しなかったことの発表である。
誰もが思いつく、ということは、
駄洒落自体は、誰にも否定できなくなる。
駄洒落に否定的であるためには、
駄洒落を認めた上で、
自らの立ち位置を確保するしかない。
僕は、駄洒落は嫌いだけれど、
駄洒落を肯定しても、否定しても、
駄洒落に依存しなければならず、
対立は起きないはずである。
そこに、あえて対立を生み出して、
駄洒落を冷笑して、楽しんでいるような、
シニカルな自分が見えてくる。
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- 2017年01月09日 19:41 |
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駄洒落を聞かされる側はつらい。
頭に浮かんだ類似する単語を、
そのまま単語として出してきた相手に、
なんらかの対応を迫られることになる。
なぜかは知らないが、どうやら相手は、
笑いを期待しているらしい。
他人を愉快にさせることよりも、
自分が言いたいことを優先する相手から、
自分が言いたいことを封じて、
他人を愉快にさせることを強いられる。
似ている単語くらい、誰にでも浮かぶ。
誰にでも浮かぶから、おもしろさはない。
おもしろくないから、わざわざ表さない。
つまり、駄洒落は、
表さなければ、まだ駄洒落ではない。
表現することを許容するから駄洒落になる。
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- 2017年01月09日 13:03 |
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誰かの駄洒落くらい、
軽くスルーできるはずなのに、
嫌うことさえなく、
まったく無関心でいられるはずなのに、
過剰に反応してしまうのはなぜだろう。
駄洒落に先立つ最初の反応は、
欲していないものが押しつけられた感覚で、
僕は、それに対しては、
ニヒルというよりは、
シニカルに応じている気がする。
仮説を立ててみる。
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- 2017年01月08日 20:05 |
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下らないことが分かっていて、
あえて言うのならいい。
相手がスルーすれば、
おもしろくなさを共有できる。
笑わないことで、
おもしろさを共有できる。
駄洒落を否定することで、
不愉快さを募らせない。
自分はおもしろいことを言った、
と自信を持っているのが困る。
笑いが分からないから、
相手が笑わないと思っているのが困る。
容易に分かるから、
おもしろくないのに。
おもしろさと、おもしろくなさが、
僕とは、ほとんど入れ替わっている。
駄洒落について述べることも、
結局は、駄洒落に対する反応であり、
おもしろくなさからは逃れられない。
例えば、「笑点」を、つまらない、と評しても、
「笑点」は少しもおもしろくならない。
そして、「笑点」を、おもしろい、
と言う人がいたなら、きっと、
おもしろさと、おもしろくなさが、
僕とは、ほとんど入れ替わっている。
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- 2017年01月07日 22:47 |
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