tetsugaku poet
空間が生まれ、
時間が流れ出す。
10^-44秒後 ――、
1秒の1兆分の1を1兆分の1にして、
さらに10億分の1にした時の間に、
宇宙は、10^-33cmから直径1cmにまで膨れた。
極めて極めて小さい宇宙が極めて小さい宇宙になった訳だが、
この膨張率は凄まじい。
1mmから始まったとしたなら、
1000億光年の大きさになっている。
その時の温度は1兆×1兆×1万度。
こんな数字は、僕が、ひと桁、ふた桁間違えていたとしても、
1兆割るのを、掛けるのを忘れていたとしても文脈が変わらない。
きっと、誰もが考えることを止めている。
刹那の後、握りこぶしに収まっていた宇宙は、
さらに僕たちが直観できないふるまいをする。
10^-35秒後 ――、
1cmで隣り合っていた空間は、
現在観測できる宇宙全体よりも遠く離れた。
端緒の後の3分間、
巨大な核融合炉の中で ――。
素粒子と光子と電子が飛び交い、
素粒子が結びついて陽子と中性子が生まれ、
陽子と中性子が結びついて小さい複合核、
重水素やヘリウムやチタンが生まれた。
30万年後 ――、
温度が3000度(K)ほどに下がった頃、
電子と原子核が結合して通常の原子を形づくる。
そのほとんどは水素だ。
10億年後 ――、
重力の歪みに水素が落ちて星が生まれ、
星が集まって銀河が生まれた。
重力で収縮するにつれて温度が上昇し、
中心部が1500万度、水の160倍の高温高圧になったときに核融合が始まる。
星たちが光り始める。
星は核融合により、
炭素(C)、窒素(N)、酸素(O)など、
次第に重い元素を生み出し、
巨大な星は、7億度でナトリウム(Na)、マグネシウム(Mg)、
30億度でリン(P)、硫黄(S)、塩素(Cl)、カリウム(K)、カルシウム(Ca)、
50億度で鉄(Fe)を生成する。
やがて、星は核の燃焼による寿命を終える。
自らの重みに耐えられなくなった星の核が潰れはじめ、
跳ね返って爆発を起こす。
高速で元素がぶつかり合い、圧力も温度も上昇する中、
核融合が進み鉄よりも重い元素を作り、撒き散らす。
そんな星たちの欠片を集めて、
太陽系が生まれた。
100億年後、宇宙の片隅で。
今から46億年前、
輝き始めた太陽の周りで ――。
円盤状に太陽をとり巻いていたガスや塵から、
10兆個の微惑星が生まれた。
地球の軌道になる辺りでは、
直径10km、重さ1兆tほどの微惑星が100億個あり、
それらは、引き合い、衝突と集積を繰り返し、
やがて原始の地球を形づくった。
微惑星は秒速数kmから10数kmの速さで地表に落ちて、
互いを砕いた。
衝突の地点は1万数千度の高温になり、
互いを溶かし蒸発させた。
密度の高い金属は地球の核へ沈み込み、
蒸発した気体は舞い上がり大気をつくった。
水蒸気を主成分とする大気は、熱を包み込む。
地球は溶岩の海が広がる火の玉になって、
微惑星を捉えながら転がった。
原始の地球が成長するにつれて、
他方、衝突してくる微惑星も集積が進んでいる。
月の成因に関して、
地球に火星ほどの大きさの微惑星が衝突し、
砕けた破片が結集して月になったとする説が有力だ。
微惑星を喰い尽し、
衝突の回数が減少すると、
地表と大気が冷え始めた。
溶岩の表層が薄く固まった。
同時に、大気が水蒸気を手放して雨が降った。
雨は1000年降り続く。
空の水がすべて落ちて、
地表を覆い尽くした。
海が生まれた。
雨上がり ――。
透きとおる星空に、
惑星になり損ねた月が落ちかかる。
やがて、白い太陽が昇ったとき、
光と水は空に魔法をかけた。
青ざめた虚空に、虹が架かった。
そのとき地球は、
生命の誕生を約束した、
―― そうは思わないか?
虹が架かる。
荒れ狂っていた地球が微かに笑う。
やがて僕たちが見る、
地球の色をすべて示して。
地球は微笑む。
どうやら100億年は茶番だったらしい。


- 2013年03月31日 09:02 |
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僕にとっては、
僕の周りは僕が作り出した嘘で、
そこから先のこんがらがった宇宙まるごとは、
ありのままぜんぶ真実になる。
僕にとっては、
少し遅れてくる僕の瞬間が嘘で、
その直前の、僕が耐えられそうにない、
時間の先頭が持つ全体性が真実になる。
いずれも、主観が邪魔になるが、
人がものごとを判断するためには、
自他を区別しながら言語表現をしなければならない。
まだ言語表現に至らない、
時間の先頭を捉えたとしても、
そこに何があるのだろう。
自他の区別なしでの言語表現は、
言葉にとっては崖っぷちだ。
自他は、主客に代入が可能と考える。
時間の先頭を直観できたとして、
その経験を述べるためには、
言葉によらざるを得ないなら、
表現には必ず嘘が紛れ込むことになる。
僕には何も書くことができない。
瞬間を厳密にしてみよう。
一瞬は、無限小だが、欠如や無ではない。
一瞬は、非存在を指示するのであってはならない。
示差的な規定を欠いても、
概念の対象としては実在する。
無限小は、その無規定さゆえに、
無限大と同義的だ。
無限小には始まりがなく、
無限大には終わりがない。
境界もなく、区切りもない。
宇宙まるごと、過去も未来も、
すべては今の一瞬に包含されている。
無限大の宇宙が、
無限小の今においてのみ存在するとき、
もはや人の悟性は及ばないだろう。
僕には何も書くことができない。


- 2013年03月29日 21:46 |
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僕たちには、岸が動く感覚がない。
地球が動く感覚がない。
だから、岸は動かずに、
舟だけが動く。
岸を動かそう。
何ひとつとして動かないものはないから。
地球の赤道半径は、6378km、
赤道の円周は、6378×2×πで、40074km、
例えば、大阪市の緯度は、北緯34度41分10秒、
10進で、34.6862971、
40074×cos34.7で、32947km、
自転周期は24時間、
つまり、86400秒、
32947÷86400で、0.381km/sec、
岸は秒速381メートルで回っている。
地球と太陽の距離は、15000万km、
地球の公転軌道は、15000万×2×πで、94248万km、
公転周期は、365日、
つまり、3153.6万秒、
94248÷3153.6で、30km/sec、
岸は秒速30キロメートルで周っている。
地球は太陽を周るが、
太陽もおとなしくしていない。
太陽も自転する。
―― 地球から見た太陽の自転周期は、赤道で26.9日
太陽系のまるごとが、ヘルクレス座の方向に動いている。
―― 秒速19km
銀河系のまるごとが、しし座の方向に動いている。
―― 秒速600km
宇宙が膨張しているのなら、
その中心から離れている。
どこで閉じて、
どこに主観を置けばいい?
どこから観る主観を客観と呼ぶ?
こんなに落ち着きのない世界で、
時速10キロメートル、
秒速2.8メートルで行く舟にも、
移る岸にも、
主観も客観もあるものか。
こんなに入り組んだ状況で、
すべてが同時に全体として起こっている。
どれかを止めて、
どれかを動かしても意味はない。
こんなに込み入った状況で、
一方を原因としても、
他方は結果にはならない。
こんがらがった、ありのままが世界で、
それだけが真実だ。


- 2013年03月26日 23:02 |
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1分前は過去を指し、
1分後は未来を指す。
今よりも前に来た時間が過去で、
今よりも後から来る時間が未来になる。
前が過去、後が未来、
そう考えるのが当為で、
こんな説明じたいが馬鹿げている。
しかし、僕が時間に正面から対峙すれば、
疑問の余地を作ることができるのかもしれない。
前方から来る時間は未来で、
後方に過ぎ去る時間が過去になる。
1分前は未来、
1分後は過去と言わなければならない。
そうだとしても、
今さら何も変わらないけれど。
能動的に時間を流しているくせに、
受動的にしか意識できなかったらどうなる?
主観的に時間を流しているくせに、
客観的にしか観れなかったらどうなる?
そうだとしても、
今さら何も変わらないけれど、
それでも、世の中には、
実のないことを考えてしまう馬鹿がいる。
馬鹿よりほかに知らないし、
今さら馬鹿以外にはなれないが、
それにしても、僕は、
どうしてこんなに面倒くさいのだろう。


- 2013年03月26日 12:41 |
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時間は過去から未来に向かう。
なぜかは問えない。
過去と未来は、言葉の中にすでに前後を含んでいるから。
前が過去、後が未来、
1分前は過去を指し、1分後は未来を指す。
僕が川岸に佇んで、
左が上流、右が下流として、
下流に向かって進む舟を眺めているとき。
舟は、左から来て、右に進む。
左は過去、右は未来、
舟は、過去から未来に進む。
僕が舟に後ろ向きに乗りこんで、
後ろが下流、前が上流として、
後ろから現れて、前に過ぎ去る岸を眺めているとき。
岸は、後ろから来て、前に進む。
後ろは未来、前は過去、
岸は、未来から過去に進む。
舟は、過去から未来に、
岸は、未来から過去に進むが、
こんなのでいいのだろうか。
僕たちが作ったのかもしれない時間は、
―― 僕たちは、僕たちの時間の感覚を宇宙に押しつける。
可逆的なのかもしれないし、
―― 僕たちは、原因の後に結果が来る、この順番は崩せない。
双方向に流れているのかもしれないし、
―― 順番を崩せないのは、僕たちの都合だ。
舟が進むような、僕たちのふつうの時間の中にも、
メタな入れ子がある。
時間が難しいのではない。
難しいのは、僕たちのほうだ。


- 2013年03月25日 14:01 |
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枕草子、242段、
ただ過ぎに過ぐるもの。
この段で清少納言は「帆かけたる舟」を挙げる。
さらに「人の齢。春、夏、秋、冬」と続ける。
この感性は、古くならない。
千年経った今でも、
さしあたりこの3つで過不足ないように思える。
過ぐるもの、は時間と意味を同じくする。
ほかの段が例示列挙なのに対して、
この段は言い替えに過ぎない。
きっと彼女はそのあたりのことも気づいていた。
だから、3つにとどめた。
彼女に倣って、過ぎ行く時を舟に喩えたなら。
僕たちは岸に佇んで、
下流に流される舟を見ているのだろうか。
それとも、流れを下る舟に乗って、
上流に向かって移動する岸を見ているのだろうか。


- 2013年03月23日 12:14 |
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世界は、
亀の甲羅に乗った3頭の象に支えられている。
須彌山(しゅみせん)説、
5世紀のインド、
出典は、倶舎論(ぐしゃろん)。

奇妙に正しい世界観と、
型破りな説明のしかたがうれしい。
象も亀も動物、
大地を載せて移動する。
3点支持の象が移動するなら、
回転するよりほかにない。
虚空を泳ぐ海亀は、
公転を想起させないか?


- 2013年03月22日 12:48 |
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太陽系が生まれたのは46億年前、
宇宙が生まれたのは137億年前。
しかし、46億年前にも、
137億年前にも、時間はなかった。
僕たちが46億年前を想うとき、
遡って僕たちの時間が流れ始める。
宇宙は僕たちを得て、
137億年の時間を知った。
宇宙は僕たちを得て、
自らを想うことができた。
自らがあることの不思議を知った。
宇宙には時間などない、
と仮定する。
にも関わらず、僕たちは、
時間が流れる意識を持っている、
とする。
そのときでも僕たちは、
宇宙には時間が流れていて、僕たちも流されている、
と信じて疑わないはずだ。
僕たちが宇宙の時間を流している、
とてもそんなふうには思えないが、
そんなふうに思えるとするなら、
時間は、僕たちが作り出している幻想かもしれない。
自然科学は、主観を排除する。
自然科学の古典、物理学ならなおのこと。
物理学は、世界が合理的な法則によって貫かれている、
―― そのこと自体は証明ができないにしても、その前提のもとに、
僕たちの経験する事実から法則を探し出す。
認識の主体を消し去って、
唯物論的になったときにも、
時間は残るのだろうか。
僕たちの世界が、
それ自体客観的に存在していること、
それだけですべてが描き出せるのなら、
世界はどんなに簡単だろう。


- 2013年03月19日 22:41 |
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なぜ、時間は過去から未来へ向かうのか。
それは、質問になっていない。
過去と未来は時間の後先にあるから。
なぜ、前は後の前で、
なぜ、後は前の後なのか。
どうせ質問になっていないのなら、
こっちのほうがかっこいい。
僕たちの時間は過去から未来へ向かうが、
僕たちは、前を見て歩けない。
前を見ても、未来は何も見えてこない。
後ろ向きにしか歩けない。
後ろを見ながら、
あると同時になくなってしまう今と、
背中合わせで歩いている。
僕たちの知覚は遅いから、
僕たちは、厳密には今を知らない。
僕たちは、厳密には過去しか知らない。
体験として再構成するのにはさらに時間がかかる。
過去の知覚を想起しながら、
僕たちの主観で空間化が起こる。
僕たちは、過去における時間の在り方でしか時間を知ることができないが、
推移する今を直観できるとして、
そこに過去における時間のあり方を適用するのは、
妥当だろうか。
後ろ歩きの僕が、振り向いて、
時間の先頭に立てば、どんな気分だろう。
一点透視の消失点から次々に今が立ち上がる。
回転し、揺れ動き、僕の意識は追いつかない。
時間の先頭は、過去と未来が出会い、
未来の可能性を過去の事実に変え、
過去も未来も一切合切を引き受ける。
瞬間が包含する全体性に、
僕は耐えることができるのだろうか。


- 2013年03月18日 21:31 |
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当然のことだが、
時間はいつでも今を指示する。
今、今、今だけが推移する。
僕たちはいつでも今にいて、
過去の記憶を辿るのも、未来を思い描くのも、
今を離れてはあり得ない。
すべては今の一瞬に包含されている。
今はすべてをつなぎ留める。
今がなければ過去も未来もばらばらにほどけて、
何もなくなってしまうだろう。
僕は常に世の中の客観的な時間の中にいながら、
たいていはそれを離れて、僕の主観的な時間を過ごしている。
そうして、時が経つのを速いとか遅いとか言っている。
世の中の時間は、一定していても、いなくても構わない。
加速しても、減速しても、中断しても、
そんなのは世の中の時間の勝手にすればいい。
僕の時間も一緒に連れて行ってくれるのなら。
僕と世の中を構成する粒々が、同じ速さで踊るのなら。
時間は、速くなるとも、遅くなるとも、
速くも遅くもならないとも言えない。
そもそも、速度を時間に帰そうとすれば、
カテゴリー錯誤になるか、同語反復に陥ってしまう。
クルマは速いか、遅いか、
こんな問いは意味をなさないが、それでもなんとなく比較の対象がある。
時間にはそれがない。
同様に、時間は中断するとも、しないとも言えない。
中断はその意味の中に、時間の間隔を持ち合わせている。
飛び込んできた光の矢が、
僕の水晶体を射抜く直前に1万年止まったとする。
1万年経って光が僕に届き、
1万年ぶりに僕は、ありていな感想を漏らすだろう。
まぶしいな、とか、
めまいがしそう、とか、
くらくらしてきた、とか。
時間を止めておきながら、
中断に、1万年とか、1億年とか、永遠にとか、
時間の経過を持ち込まないとうまく説明ができない。
間違いを知っているくせに、
間違わずには語れない。
それで不都合はないから、
構わないけれど。


- 2013年03月16日 22:07 |
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