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佐村河内守と新垣隆 1/x


交響曲第1番 HIROSHIMAは、
2003年の秋に完成した。


僕は聴いたことがないけれど、
どうやら、この曲は、
ショスタコーヴィチですら軽く感じられるかもしれない、
らしい。

32の楽器編成の旋律が緻密に書き込まれ、
1音符たりとも無駄な音はない、
らしい。


いまさら評価を覆すのは変だ。
去年までショスタコーヴィチより重厚だったなら、
今年になってからも、軽くなるわけがない。
去年まで1音も無駄がなかったなら、
今年になってからも、無駄な音は増えない。


去年の感動はどこに行った?
突きつけられられている人は、
少なくないはずだ。


佐村河内のストーリーに乗せられて、
去年は感動したけれど、
新垣のストーリーで壊されて、
今年は感動できなくなったなら、
それは、同じ愚を重ねているにすぎない。

クラシックの評論家は、ファンは、
音楽に何を聴く?


春立つや愚の上にまた愚にかへる
一茶







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  1. 2014年02月11日 20:09 |
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佐村河内守


さむらかわちのかみ、ではない。
さむらごうちまもる、と読む。

ブログを書く理由を追い出して、
入れ替わりに、頭を埋め尽くすのは、
先ほど開票が始まった都知事選ではなく、
昨日、開幕したオリンピックでもなく、
佐村河内守と新垣隆。

彼らの事件はおもしろすぎる。
問いが多すぎて、
何から考えていいのか分からない。



バナメイエビと根っこは同じか?
ロックバンドだったらどうなる?
クラシックのファンは、音楽に何を聴くのか?
もしベートーヴェンの耳疾が嘘だったら、
いまさら評価は変わるのか?
1人の楽曲群には変わりがないから、
作者の名前を新垣隆に訂正すれば、
それでいいのでは?
では、佐村河内守の評価を、
そのまま新垣隆に移すことはできるか?
レコ芸では、宇野功芳と金子健志が酷評していたらしいけど、
いつもの天邪鬼か、裸の王様か?
作曲家は、発注されて書くべきなのではないか?
古い書法で、古い調性で、
聴衆が分かりやすく感動できるものを。







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  1. 2014年02月09日 20:02 |
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反故にしない


いつだって、
多くのコメントをもらいながら書いている。
僕は何も考えないまま書き始めるけれど、
いつだって、居心地がいい場所にたどり着ける。

空に放った風船の行方を、僕は知らない。
風を吹かせるのは、僕ひとりではない。
風になるのは、多彩な人たち、
僕とは違う人たち、実はよく分からない人たち。

分からないなら、
分からないまま宙に浮かべていよう。
僕の中で片づくような人たちではない。
僕の枠に収まってしまうような人たちではない。

優しくて、聡明で、親切な人たち、
そんな人たちの言葉は、反故にはできない。

ブログを書く理由は、
そんな人たちがいるから。



    okiさんにありがとう、
    Twitterや、Facebookを引き合わせた。

    瀧野さんにありがとう、
    瀧野さんのベースが歌うから、
    僕のしょぼいアドリブもかたちになる。

    ビーカブさんにありがとう、
    ビーカブさんは僕の目標、
    いつかビーカブさんのような人になりたい。

    がたおさんにありがとう、
    まりこうたさんにありがとう、
    がたおさんは泥酔しているので、
    介抱をよろしく。
    穏やかな声で子守唄を。

    hiroさんにありがとう、
    ミニで、酔っぱらいのふたりを送ってほしい。

    まきがいさんにありがとう、
    穴の底で投稿を待っている。

    まいまいさんにありがとう、
    ブログを書く理由は、
    まいまいさんに宛てて書いたから。

    あんさんにありがとう、
    幾久しく、よろしく。

    国見さんにありがとう、
    naruさんにありがとう、
    松岡さんにありがとう、
    哲心さんにありがとう、
    読んでくれて、ありがとう。







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  1. 2014年02月08日 10:57 |
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反故にする


ここのところ、
2週間ほど考えていたことを、
意味がなかったことにする方法はないか?
少々もったいないけれど。

問いをごみ箱に突っ込めば、
答えもまとめてごみになる。
では、問いを無化する方法はないか?
答えを探すくらいなら。



ブログを書く、ということを、
特別なことではなく、
会話をするとか、散歩をするとか、
そんなものにしてしまえばいい。

誰かと喋る理由も、
どこかを歩く理由も、
あるといえばあるけれど、
そんなものは、誰も問わないから。



僕たちは、自由に書いて、
好き勝手に書いて、
誰もが読めるようなチャンネルに載せて、
それでも、書く理由を忘れていられる。

ブログがなかった頃は、
考えや想いを公表するときには、
その都度、多少なりとも理由が求められたはずだ。
他人に対しても、自分にも。

そんなのが気になっただけで、
書くことは、本来、当然のことだったのではないか?
喋ったり、歩いたりするように。
その方法がなかっただけで。



話し下手の人でも喋っていいし、
歩くのが不自由でも歩いていい。
文章が下手でも書いていい。
書きたいなら書けばいい。

もちろん、書かなくてもいい。
黙っていても、
引きこもっていてもいいように、
書きたくなければ書かなくていい。

ブログを書く理由は、
書きたいから。
何も言っていないような理由だが。







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  1. 2014年02月07日 12:09 |
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ブログを書く10の理由 2/2


『面倒だから』

奇をてらった理由だが、
ありがちな理由は、
意外と理由になっていないことが多い。
例えば、流行っているから。

その後に、どう結論づけるのかは予測がつかない。
流行っているから選ぶ、
流行っているから選ばない、
どちらでも成り立つ。

面倒だから、それは妙な理由なので、
それが理由になる理由を求められるだろう。
そして、おそらく、理由の多くは、
それが理由になる理由を理由としている。



誰でも面倒は避けたい、
手軽なほうがいい。
TwitterやFacebookが選ばれる理由だ。
人は易きに流される。

面倒だから、それが理由にならないとすれば、
手軽だから、簡単だから、
それも当然には理由にはならない、
そう考えたほうがいい。



文章を書くことは、
とんでもなく面倒な作業だ。
単語を選び、組み合わせを変え、
繰り返しを避け、あるいは、繰り返す。

リズムに気を配り、
倒置させて、また、戻す。
そんなのに比べれば、
ブログの投稿の手間など取るに足らない。

面倒なのは、操作ではない。
面倒なのは、書き言葉で、作文で、
つまり、面倒なのは、
書き言葉で書いてしまう僕になる。



TwitterやFacebookは、
数時間も経てば、ほとんど顧みられず、
次の日には、もう見られることはない。
文章にこだわっていても仕方がない。

TwitterやFacebookは、
投稿が簡単なのではない。
簡単なのは、話し言葉で、
簡単なのは、作文をしないからだ。

投稿は、書く側も読む側も、
すでに多くの情報を共有していて、
その範囲でやり取りされる。
考える、ということがあってはならない。

すでに共有しているインデックスを、
指示し合っているにすぎない。
もちろん、読み書きされるとしても、
その実質は、話し言葉だと思う。



僕は、面倒なことを書きたい。
考えたこと、想ったことを伝えるのは、
いつだって面倒だから。
それでも、書かないと伝わらない。

文字を介して、
考えや想いを読む側によみがえらせることは、
いつだって失敗することが運命づけられている。
そして、書き投げてしまえばその後は分からない。

駅の伝言板に落書きをしたり、
宛名のない手紙を、風船にくくりつけて空に放したり、
ビンに入れて海に流したり、
そんなのによく似ている。

それでも、
書かないと伝わらない、届かない。







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  1. 2014年02月04日 12:03 |
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ブログを書く10の理由 1/2


2/x、『自己満足』
あるいは、『理由なんてない』
しかし、それとは違う意味合いで。
3/x、『承認欲求』
ただし、世間的に正しくないもの言いにおいて。
4/x、『備忘録』
ただし、忘れるための。
5/x、『ブログに仮託した生きる理由を探すため』
生きることの丸ごとが、
ブログを書くことを束ねているなら。
6/x、『自分が好きだから、ありのままの自分が嫌いだから』
どうしようもなく書いてしまうから。
7/7、『書き言葉があるから』
なので、僕が答えることではない。

そんな理由を思いついた。



ブログを書きながら、
ブログを書く理由を探していたから、
正しくは、ブログを書く理由をブログに書く理由になるが、
今日は、そこでは遊ばない。

いくらでも思いつくから、
頭が空っぽにならない。
あと3つ例示して10個にすれば、
頭から出て行ってくれるだろうか。



『見せびらかし、ひけらかし』

理由というよりは、
ブログの言い換えに近い。
見せびらかし、ひけらかしは、
ブログとほとんど同義だ。

それを読み手に感じさせないように腐心するが、
書き続ける以上は、功を奏しない。
下手だ、馬鹿だ、出来損ないだと自嘲しながら、
次の日には、さらにひどい記事が載っている。

下手で、馬鹿で、出来損ないだけど、
そんな自分も好きなのだと、
どこかで認めるよりほかはない。
そんな自分は嫌いでも。



『かまってちゃん』

これもブログの言い換えだ。
読まれたくないことは公開しない。
読まれたくないことを公開する快感は、
僕には刺激が強すぎる。

読んでもらえたら、構われたい。
構われたい人から、構われたい。
構われたい人からの、
構われかたが気にかかる。







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  1. 2014年02月03日 12:46 |
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ブログを書く理由 7/7


ブログは書かれる、読まれる。
話し言葉と、書き言葉、
ざっくり分けると、
ブログは、もちろん、書き言葉になる。

今日も一日、僕は話し言葉で過ごしてきた。
対面のコミュニケーションが繰り返され、
等閑に付され続けてきた書き言葉が、
独りになった僕に誘いかける。

選ばれなかった書き言葉が、
ネットで仕返しを計っている。
言いそびれた言葉の行方を追っている。
選ばれなかった未来の時空を描いている。

ブログでも書かないと、
やっていられない。



話し言葉が充満しているから、
僕は話し言葉のようにしか書けない。
文は短く、かんたんな語彙を選び、
断定を避けて、柔らかく書く。

倒置し、中断し、語順が乱れ、
文法に従えない。
形容詞も接続詞も浮かばず、
説明も描写も面倒だ。

それでも、書き言葉には変わりがない。
下手でもなんでもいい、
馬鹿にされてもどうでもいい。
書き言葉でしか得られない表現がある。

走る理由は、道があるからで、
登る理由は、山があるからだ。
ブログを書く理由は、
書き言葉に訊いてくれ。

書き言葉が、
書けと言っている。







  1. 2014年02月01日 12:52 |
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