tetsugaku poet

qinggengcai

ぐだぐだ


火曜の夜は、会社で寝落ち、
水曜の夜は、3時半帰宅。

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さすがに疲れた顔ですね。

夢は、
ふろに入ること。

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  1. 2014年03月27日 17:18 |
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ブログトーナメント、3月の結果発表


3月は、1勝。

優勝1回、準優勝3回、
なかなか勝たせてもらえません。



    03/12決勝、「コレクション」トーナメント、参加者26名、
     ★準優勝、『蒐集癖』、2013/04/13

    03/13決勝、「観葉植物推奨」トーナメント、参加者14名、
     ★準優勝、『シャムロック、Shamrock』、2012/11/23

    03/16決勝、「仏道を習うというは、自己を習うなり。16」トーナメント、参加者8名、
     ☆優勝、『一夜落下雨』、2014/03/09

    03/23決勝、「乗り物写真選手権(鉄道除く)」トーナメント、参加者36名、
     ★準優勝、『理由がない』、2013/10/24



    コレクションブログトーナメント
    観葉植物推奨ブログトーナメント
    仏道を習うというは、自己を習うなり。 16ブログトーナメント
    乗り物写真選手権(鉄道除く)ブログトーナメント



書こう、
更新しよう。

4月は、5勝します。







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  1. 2014年03月26日 23:24 |
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考える人


考える、

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考える、

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分からない。

    rover_mini_140320c.jpg

なぜ2月だけ28日間なのだろう。

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  1. 2014年03月20日 19:21 |
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一夜落下雨


夜になって、天気雨が降った。
雨粒の一滴一滴に、
上弦の月を映して。

誰も観ていないところでも、
一滴は月を映すのだろうか、
などと、落ちかかる月を観ながら、
考えてみる。

そんな考え自体が、
観る者に依存していることにも気づかずに。



天気雨の夜空で、
僕は視座をどこにも定めない。

僕の上下と前後と左右、
天空から、地上から、どこからでも視線を投げかけて、
箒(ほうき)に乗った魔法使いになってみる。

それでも、視座が定まっている。
どこにも定めていないつもりでも。



なぜ僕は一滴の外に僕を置く?
誰も観ていないと言うのなら、
一滴の内も外もないはずなのに。
なぜ一滴の中に入り込もうとはしない?



一滴に月が映る。
僕は一滴に映る月を観る。
そのとき、僕はあらかじめ、
または同時に気がついてしまう。
一滴に映る月を観ているのは僕だと。
一滴には、あらかじめ、
または同時に僕が待ち受けている。

一滴を観ているというそのこと、
僕は一滴にそのこと自体を観てしまう。
一滴を観ていた僕が、一滴に映って反射する。
一滴に僕が反転される、一滴は僕に僕を返す。
僕は一滴の心象を描出し、
その都度、一滴は僕に告げるのだ。
僕の心象を。

月は一滴に入り込む。
僕は一滴に入れない。
そこには、既に僕がいたから。



道元は言う、
一塵を知る者は、尽界を知る。
一滴の中にも、無量の世界が現成する。

自己を忘れることで、
自己がすべてのものに実証されると説くが、
言葉が巡っている限り、
僕にはたどり着けそうにない。

沈黙しなければならない地点が来ている。
もったいないけれど、
考えたことは忘れよう。

今夜擧頭唯見月、讒知最遠是人間、
今夜、頭(こうべ)を挙(あ)げて
唯(た)だ月を見れば、
讒(わず)かに知る、
最も遠きは是(こ)れ人間(じんかん)。
―― 十一日夜坐/易順鼎(えきじゅんてい)



幾千万の月が降る。
雨はまだ止まない。



    一塵をしるものは尽界をしり、
    一法に通ずるものは万法を通ず。
    ―― 正法眼蔵/諸悪莫作
       “正法眼蔵 二”/道元著、水野弥穂子校注
       1991、岩波文庫

    一滴(てい)のなかにも無量の仏国土現成なり。
    ―― 正法眼蔵/山水経
       “正法眼蔵 二”/道元著、水野弥穂子校注
       1991、岩波文庫

    仏道を習うというは、自己を習うなり。
    自己を習うというは、自己を忘るるなり。
    自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。
    万法に証せらるるというは、
    自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
    ―― 正法眼蔵/現成公案
       “正法眼蔵 一”/道元著、水野弥穂子校注
       1991、岩波文庫







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  1. 2014年03月09日 19:14 |
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僕の中のくやしがる子ども


ふり返ってみれば、
子どもは子どもが思っているほど子どもではなかったし、
大人は子どもが思っていたほど大人ではなかった。
しかし、それは大人になってから思うこと。

僕が、大人の僕の思考で子どもの頃の僕を捉え直すなら、
大人と子どもの差異は小さくなって当然だ。
今、僕が子どもの頃の僕を思えば、それは子どもではなく、
大人がどんなものかを知っている、小さな大人だ。

どうしたって、僕は、子どもの頃の僕には戻れない。
そして、戻ったとしても意味はない。
子どもの僕に戻ることは、大人の僕を忘れてしまうことと引き換えになる。
僕は、同じ途をトレースして、また大人になってしまうのだろう。



生まれてから数年しか経っていない、
そんな小さな人たちは、あちこちにいるけれど、
小さな人たちは、大人たちから規定されなければ子どもにはならない。
子どもは大人によって作られる。

気がついたときには、僕たちはすでに子どもだったから、
子どもは、子どもでしかあり得ず、一様に子どもらしさが求められる。
大人が、小さな人たちに向ける子どもらしさという視点を、
小さな人たちもまた等しく共有することになる。

では、子どもらしさとは何の謂いだろうか、
それは、子どもが作るのだろうか、大人が作るのだろうか。



子どもの頃の僕は、もうこの世界のどこにもいない。
それでも、大人の僕に探されて、
歪められて、書き換えられても、反論を許されない。
まるで死者のような扱いを受けている。

僕は、子どものなれの果てではあるけれど、
子どもの頃の僕は、もう死んだとしか言いようがない。
そして、殺したのは、僕に違いない。
僕のほかに、誰が殺せるのだろう。

子どもの頃の僕は、くやしがっていないだろうか。
大人の僕に総括されることを。
子どもの頃の気持ちに戻ってなどと、
能天気な台詞を添えて語られることを。



できもしないことさえ分かっていないくせに、
後出しじゃんけんのくせに、
もう思い出せもしないくせに、
殺したくせに。

くやしがっていないだろうか。
うまく説明ができない、もどかしさとともに。







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  1. 2014年03月03日 18:14 |
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Mへ


苦しいときのMに、
せめて、ひと時、
苦しみを忘れさせることができますように。
楽しみを伝えることができますように。

悲しいときのMに、
せめて、ひと時、
悲しみを紛らわせることができますように。
喜びを届けることができますように。


理解されるよりも、
理解することを求めましょう。
いくらかでも、
僕は、Mのことが解っていますか?

優しくされるよりも、
優しくすることを望みましょう。
わずかでも、
僕は、Mに優しくできていますか?


色の濃い葉っぱが、
ざわざわと揺れる樹の下で、
Mと並んで、
風に吹かれることを夢に見ます。

何を話しましょうか?
途方に暮れますね。
それとも、もう何も、
話さなくてもいいのでしょうか?


幸せになってほしい、
幸せになってほしい、
何度でも言います、
Mには幸せになってほしいのです。

幸せでありますように、
幸せでありますように、
そして、いつだって、
Mの幸せを願える僕でありますように。







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  1. 2014年03月02日 01:21 |
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