tetsugaku poet

qinggengcai

ダメ人間


自分のダメさ加減に気づくこと。

そんな言い回しは、
使い古されているけれど。

不必要に偏向して、
複雑にしてしまうけれど。

その内省だけで、
満足してしまうけれど。

自分を追い込んだつもりで、
逃げ道を開けているけれど。

自分に厳しくなったつもりで、
また甘やかしてしまうけれど。

憂いをまとって、
いい気分になるけれど。

その謙虚さで、
また自分を称揚したくなるけれど。

    その謙虚さで、また自分を称揚したくなるけれど。







  1. 2014年09月28日 21:06 |
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ブログ村トーナメント、9月の結果発表


9月は15回参戦して3勝、
優勝3回、準優勝2回。



    09/01決勝、「あなたのつぶやき」トーナメント、参加者80名、
     ★3回戦敗退、『処暑』、2014/08/23

    09/03決勝、「歌についての話」トーナメント、参加者38名、
     ★3回戦敗退、『ふぁぼる』、2013/05/11

    09/07決勝、「詩人の集い(2)」トーナメント、参加者40名、
     ★3回戦敗退、『夏の正体』、2014/08/25

    09/12決勝、「OLD or NEW」トーナメント、参加者14名、
     ★準決勝戦敗退、『得たものと失ったもの』、2014/08/25

    09/13決勝、「霧の中を行けば、覚えざるに衣湿る。」トーナメント、参加者11名、
     ★準優勝、『どうしようもない』、2010/08/06

    09/15決勝、「語らざれば 憂い無きに似たり」トーナメント、参加者21名、
     ★準々決勝戦敗退、『考えること、について考える試み 2/x』、2014/09/02

    09/16決勝、「暇な」トーナメント、参加者43名、
     ★3回戦敗退、『天の壺中』、2010/04/10

    09/16決勝、「聖・・」トーナメント、参加者31名、
     ★準優勝、『全知全能』、2012/01/10

    09/17決勝、「見向きもされない」トーナメント、参加者60名、
     ★2回戦敗退、『前田利右衛門』、2010/04/11

    09/20決勝、「中身の薄い」トーナメント、参加者68名、
     ★2回戦敗退、『混ぜ返す』、2010/10/19

    09/20決勝、「自己中」トーナメント、参加者31名、
     ☆優勝、『秋は悲しき』、2014/09/07

    09/25決勝、「時代の変化」トーナメント、参加者34名、
     ★2回戦敗退、『友がみなわれよりえらく見ゆる日よ』、2012/07/05

    09/25決勝、「貧乏人の」トーナメント、参加者21名、
     ★準々決勝戦敗退、『Kenwood DMF-7002S』、2010/10/21

    09/25決勝、「秋はしみじみと」トーナメント、参加者55名、
     ☆優勝、『雨の音』、2011/06/26

    09/27決勝、「愚策」トーナメント、参加者18名、
     ☆優勝、『自分に厳しく、他人に優しく』、2014/09/14



    霧の中を行けば、覚えざるに衣湿る。トーナメント
    聖・・トーナメント
    自己中トーナメント
    秋はしみじみとトーナメント
    愚策トーナメント







  1. 2014年09月28日 21:04 |
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人によって態度を変えること 2/2


人によって態度を変えることは当りまえで、
とりわけ自分勝手ではないはずだ。
さらに言えば、むしろ、
人によって態度は変えられなければならない。

自己中も、悪い意味ばかりではない。
自分が変われば世界が変わる、
そんなよくあるもの謂いも、
実は、自己中な考え方だろう。

きまじめな人には、きまじめに対する、
適当な人には、適当に返す、
優しい人には、優しく向き合う、
そんな態度なら、自分勝手の対極にあると言っていい。

そんなふうに同位性を探るなら、
弱い人には弱く、
強い人には強く接するはずだが、
ここが逆になる人がいるから困る。

では、僕が気に入らないのは、
態度を変えることではなく、態度の変え方だと気づく。
それを評価しても始まらない。
そんな態度の変え方を、自明とする世界があると知るだけでいい。


類友 ―― 類は友を呼ぶ。
優しい人には、優しい人が集まるが、
考えてみれば、そんな都合のいい話はない。
類友の理由は、優しい人には、人が優しく向き合うから。

では、優しい人とは、
僕の優しさを引き出してくれる人、
僕が優しくなれる人。
僕が優しくなったところで、たかが知れているとしても。







  1. 2014年09月22日 21:52 |
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人によって態度を変えること 1/x


嫌いだ、不愉快だ、
人によって態度を変える人が、
どうしようもなく気持ちが悪い。

もちろん僕だって、
人によって態度を変えている。
そして、人によって態度を変える自分は、
どういうわけだか悪い気分ではない。

この自分勝手は、
どうしたものか。


誰だって、自分勝手で、
自己中で、わがままで、
などと、そんなのを落ち着きどころにでるなら世話はない。

そんなありきたりな言葉で結論づけて、
気持ちが悪いと思わない人が気持ちが悪く、
おそらくは、そういう人が、
人によって態度を変えている。

それにしても…。
僕の、このかたくなな自分勝手は、
どうしたものか。







  1. 2014年09月22日 12:17 |
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自分に厳しく、他人に優しく


自分に厳しいなんて、
思える人なら無理だろう。

他人に優しくなんて、
臆面もなく言える人なら無理だろう。

他人に厳しく、自分にも厳しい人でさえ、
めったにいないことを了知していなければ無理だろう。

自分に厳しく、他人に優しく、
なんて台詞に、嫌気がさしていなければ無理だろう。



fuckin' を挟んで、落ち着きを得よう。
自分に厳しく、fuckin'、他人に優しく。

そんなものだろう、
自分に厳しく、他人に優しいなんてのは。
(So fuckin' what? www)

    140915.jpg







  1. 2014年09月14日 13:15 |
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夢うつつ


世の中は 夢かうつつか うつつとも
夢とも知らず ありてなければ


    古今和歌集、
    読人知らず。


    エクリチュールは、反復可能性があり、
    読み手のコンテクストごとに意味が散らばる。
    文章は、読まれるたびに、
    読み手の捉え方によって意味が異なる。

    そして、僕がどう捉えるか、ということは、
    僕に宛てられた歌として読むことと同義になる。
    誰かに宛てた歌なら、
    書き手はその誰かのコンテクストを想定して書くから。

    宛名のある歌は、
    事後的に無難なところに収束された意味ではなく、
    まずは読み手のコンテクストで読まれる。

    仕組まれた掛詞や縁語から、
    読み手がどんな隠された意味を拾って、
    どんな現わされた意味を捨てるか。
    書き手は、解っていますよ、と言いたげに詠むのだろう。
    だから、恋愛と親和性が高くなる。

    僕の捉え方が間違っている、といわれれば、
    そのとおり、と答えるほかはないが、
    僕に宛てられた歌として、
    自由に解釈させてもらおう。
    それ以外に、僕にどんな捉え方がある?


    世の中は、夢か、現実か。
    現実とも夢とも知らない、
    あってないようなもの。

    夢も現実も、言語による秩序のある世界だが、
    この歌は、現実とも夢とも知らない、
    あってないような世界が開かれて結ばれる。
    見通せない世界への見通しを提示する。

    読み手もまた書き手の意図を探る。
    書き手には、メタに掛かって、入れ子を作る遊び心がある。
    いたずら心に火が着いて、煙に巻いてくる。

    見通せない世界、
    それは、カントのいう物自体、
    ラカンのいう想像界、
    そして、デリダのいう散種 ―― 無数の意味。

    コンテクストごとに意味を持ち得る不確定な散種が、
    事後的に収束され、単独の意味に捏造されること、
    それもまた、言語による秩序のある世界の構築だ。


    僕たちは、千年以上前の読み人と、
    同じ謎を抱えていて、
    気配や、名残や、面影や、幻想や、
    無数の意味とともに暮らしている。

    世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ







  1. 2014年09月11日 18:23 |
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秋は悲しき


おほかたの 秋くるからに 我が身こそ
かなしきものと 思ひ知りぬれ


    秋が来て、
    とりわけ自分だけが悲しい存在と思い知る、
    そんな自己中ぶりがいい。

    大方の人よりも、我が身こそがひときわ悲しい、
    そんなふうに自分を特別に扱って、
    世の中の感受性を見下した態度がいい。

    そんなよくない態度がいい。



わびはつる 時さへものの かなしきは
いづこをしのぶ 涙なるらむ


    嘆き果てている時でさえ、
    さらに悲しくなるのは、
    何を思って流れる涙なのだろう。

    我に返って、メタに出て、
    歌なんか詠んでいる感じがいい。
    涙は、自分を取り戻す契機になる。

    そんな自分を見失わない冷静さがいい。


    僕の捉え方が間違っている、といわれれば、
    そのとおり、と答えるほかはない。

    自分で考える、ということは、
    逆らう、ことに近似する。
    あえて世の中に沿わせないバイアスがかかる。
    

    どちらも、古今和歌集、
    読人知らず。

    雄大で素朴な万葉集をあがめて、
    古今集などは、小馬鹿にするのが気のきいた構え、らしい。

    文章フェチの僕としては、
    断然、古今集が好きだけれど。

    まずは、二項対立に持ち込んで、
    優劣をつけたがる構えを小馬鹿にしてみよう。

    わびはつる 時さへものの かなしきは いづこをしのぶ 涙なるらむ







  1. 2014年09月07日 18:23 |
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考えること、について考える試み 3/3


考える人は、考える人の話し方をする。
答えがいくつもあることを知っている。
だから、僕がどの程度の受け答えを望んでいるかを、
探ろうとする。

ひとまずは、ありきたりの答えを返して、
予想どおりでがっかりでしょうと探ってくる。
どの程度の深みで、どの程度の奥行きで、
答えましょうかと誘ってくる。

考えなくてはいけないことは、
当然に誰もが考える。
だから、ここでいう、考える人の考えることは、
考えなくてもいい余計なことに違いない。

余計なことを、考えてしまう、
それは、習いで、癖で、習癖だから、
才でも、能でも、才能でもない。
才能とするのなら、余計な才能に違いない。

習癖だから、始められるものでも、
止められるものでもない。
考えてしまうことは、直らない。
気がついたときには、もう遅い。

常識を飼いならし、屈託を手なづけて、
世の中と折り合いをつけてきた。
そんな考える人が報われる方法はただひとつ、
考える人と出会うこと。

精神的な価値を、
分かち合ってくれる人がいなければ、
その心の豊かさは ―― 豊かであるゆえに、
その豊かさの持ち主を壊してしまうだろう。



…… なぜなら、いま彼女が身をもって知ったこと
―― それは、もしほかの人びととわかちあえるのでなければ、
それを持っているがために破滅してしまうような、
そういう富があるということだったからです。
    『モモ』/ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳、
    2001、岩波書店

    140909.jpg







  1. 2014年09月04日 18:24 |
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考えること、について考える試み 2/x


考えない人の言うことは正しい。
…するのが当りまえ、
…するはず、…するべき、まるで正しい。
まるで何も言っていないくらいに正しい。
考えないのなら、
もとより間違えることもないから。

誰もが言いそうな、
世の中的な正しさで僕をたしなめる。
誰もが言えそうな、
論をまたない正しさで僕を諭す。
それを自分の考えとして、
僕に教えてくれる。

誰もが言いそうな、
誰でも言えそうな、
そんな通俗的な正しさを、
僕が知らないと、
理解できないと、
僕はそんなふうに思われているのだろうか。

それとも、知らないのだろうか。
正しさが人を傷つけることを、
正しさと正しさの間で、
人は引き裂かれることを、
人は自分のもの分かりのよさに、
耐えていることを。

理解できないのだろうか。

    140627.jpg







  1. 2014年09月02日 19:17 |
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考えること、について考える試み 1/x


大きく分けて、
乱暴に振り分けて、
考える人と、
考えない人が、
いる、と思う。

考える、
あるいは、考えないその人が、
馬鹿か利口かはあまり関係がない。
考えが正しいのか間違っているのかも、
存外どうでもいい。



単純に、純粋に、
考えるか、考えないかに分けたときに、
考える人と、
考えない人がいる、
ように思われる。

たとえ馬鹿で間違っていたとしても、
考える人がいて、
たとえ利口で正しかったとしても、
考えない人がいる、
ように思われる。



考える人からは、
考える人が分かる、
はずだ、と思う。
考えない人が分かる、
はずだ、と思う。

考えない人からは、
おそらくは、
考える人と、
考えない人の見分けがつかない、
だろう、と思う。

そして、
そのどちらが優れているか、
そんな話ではない。
少なくとも、
考える人からしてみれば。

考えることは、
あるいは、考えないことは、
良いとか悪いとか、
そういうことではない。
これは急いでつけ加えなければならない。

おそらくは、
考えないということは、
考えることが良くて、
考えないことが悪い、
急いでそう考えてしまうことだから。

    140901.jpg







  1. 2014年09月01日 21:51 |
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