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qinggengcai

優しさ、に抗って


結局は、自分のため、なのかもしれない。
しかし、それに気づいていても、いなくても、
自分の中に生まれた優しさからは逃れられない。
そんなこんなを説明したくて、吉野弘の「夕焼け」を引いてみた。

    もちろん、ひねくれ者の読み間違いくらいでは、
    この詩の価値は少しも減らない。
    僕は、この詩の繊細さを奇貨として、
    逆に、ありもしない鈍感さを捏造しただけのこと。


自分のため、といえば独善的に過ぎるが、
他者を理解することの困難さは忘れないほうがいい。
誰のせいでもなく、しかたがなく、
うまくいかない、すれ違う組み合わせがあるのだろう。



では、世の中の多くの優しさが、
優しいふりをした利権の獲得に見えたとしても、
特典を狙ったポイント集めに見えたとしても、
僕に何が解かるのだろうか。

ここにおいても、
他者を理解することの困難さは忘れないほうがいい。
利権の獲得や、ポイント集めでは独善的に過ぎる、
そんなすれ違う組み合わせがあるはずだ。



優しさ、なんてものについては、
おそらくは、考えなくても支障はないし、
考えても、生まれてくるものでもないし、
考えられた優しさは、かえって嘘くさい。

きっと、優しさは、宙吊りで、結論に至らないまま、
関心を寄せ続ける者とともにある。
検索窓に打ち込んで、答を得られるようなものではない。
表示された検索候補に、抗い続ける者とともにある。

その時々に、優しさを見つけよう。
優しさは、型にはめられるものではない。
まるで、色や形を変えながら、
空を移ろいゆく雲のようだ。

それでも雲は、雲であり続ける。

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  1. 2014年10月26日 19:46 |
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優しさ、に反して


吉野弘の「夕焼け」には、

娘が、三度目に席を譲らなかった理由は書かれていない。
作者にとって、それはどうでもよかったのだろうか。
僕にとっては、いちばん気がかりなことなのに。

そんな理由など、もう決まりきった正答があるのだろうが、
そんな答も、もう半世紀も前の正しさだ。
誰も教えてくれなくていい、自分で考えてみる。

不作為にも動機がある。
動機は、作者や批評家たちの理解が可能になるまで歪曲されて、
平板な物語に書き換えられるのだろう。

では、その実質は、彼女を除いた人たちによる、
彼女の動機の創造にほかならない。
だったら、僕にでも考える余地がある。



自分以外は、誰も席を譲ろうとしない状況で、
彼女は、優しい心を保ち続けることができなくなる。
いつものこと、そんな日常の光景に取り込まれる。

自問を続けて、動けなくなる。
優しい心を失くしてしまえば悩まなくてもすむが、
あきらめきれない、捨てきれない。

しかし、そんな説明は後づけだ。
僕たちは、普通には、知覚と行為とを抽象化しない。
彼女を悩ませているのは、彼女の優しい心だろうか?

彼女を立たせなかった直接の理由は、
彼女の優しさなのか?
彼女の感情を置き去りにした、作者の鈍感さではなかったか?



彼女は、恥ずかしかった、
それだけだったらどうだろう。
ただ、単に、恥ずかしかった。

羞恥は、他人の看視のもとで経験される。
彼女に向けられる視線が、
乗り合わせた他の乗客に向けられるのと同じなら羞恥は生まれない。

二度も席を譲った彼女なら、
特別の看視を集めていることは感じているが、
続けざまに、三度目の選択を迫られる。

立てなくて当然ではないだろうか。
だから、他の乗客は無関心を装う、関心がないふりをする、
僕だってそうする、誰だってそうする。



それでも、視線を外してくれない人がいる。
二度あることは、なんて呑気なことを考えながら、
ぶしつけな視線を浴びせてくる人がいる。

下唇を噛んで、身体をこわばらせて、
固くなってうつむいても、
観察し続けてくる人がいる。

他人のつらさを自分のつらさのように、
感じてくれない人がいる。
優しい心の持ち主に、受難を与えて、可哀想と評価する人がいる。

その人は、自らの優しさを疑わない。
そして、その人は、つらい気持ちでうつむく彼女の背後に、
美しい夕焼けを見るのだろう。







  1. 2014年10月19日 21:27 |
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夕焼け


次の詩を読んで、娘は「なぜ三度目には席を譲らなかったのか」を選びなさい。



    いつものことだが
    電車は満員だった。
    そして
    いつものことだが
    若者と娘が腰をおろし
    としよりが立っていた。
    うつむいていた娘が立って
    としよりに席をゆずった。
    そそくさととしよりが坐った。
    礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
    娘は坐った。
    別のとしよりが娘の前に
    横あいから押されてきた。
    娘はうつむいた。
    しかし
    又立って
    席を
    そのとしよりにゆずった。
    としよりは次の駅で礼を言って降りた。
    娘は坐った。
    二度あることは と言う通り
    別のとしよりが娘の前に
    押し出された。
    可哀想に
    娘はうつむいて
    そして今度は席を立たなかった。
    次の駅も
    次の駅も
    下唇をキュッと噛んで
    身体をこわばらせて――。
    僕は電車を降りた。
    固くなってうつむいて
    娘はどこまで行ったろう。
    やさしい心の持主は
    いつでもどこでも
    われにもあらず受難者となる。
    何故って
    やさしい心の持主は
    他人のつらさを自分のつらさのように
    感じるから。
    やさしい心に責められながら
    娘はどこまでゆけるだろう。
    下唇を噛んで
    つらい気持ちで
    美しい夕焼けも見ないで。

    ―― 「夕焼け」、詩集『幻・方法』/吉野弘著、1959、飯塚書店



1、善行を繰り返したため、恥ずかしくなったから。
2、善行の繰り返しが、むなしくなったから。
3、善行の繰り返しに、心身ともに疲れたから。







  1. 2014年10月18日 18:51 |
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優しさ、に伴って


他人に優しくありたいのも、
結局は、自分のため、なのかもしれない。
少なくとも、自分の都合、ではあるらしい。

誰にでも優しくできるわけではないのなら。
優しくしたい人と、
優しくしたくない人がいるのなら。

関わりたくない人とは、
どんなふうにも関わりたくない。
狭量な僕なら、好意を返されることさえ御免こうむる。


優しさは、誰かに対するもので、
対象を抜きにして考えるものではない。
その誰かとの関わりでしか生まれない。

おそらくは、考えるものでもない。
それは、その誰かとの間で、自分の側に生まれた感情で、
理屈はいつだって後になる。

相手が、優しさを求めているかどうかも分からない。
きっと、優しくされる側が、
優しさを成り立たせているときもあるのだろう。

相手が、優しさと捉えてくれるかどうかも分からない。
自分の中に生まれた感情を表しても、
すれ違う組み合わせは、幾通りもあるのだろう。


結局は、自分のため、なのかもしれない。
しかし、それに気づいていても、いなくても、
自分の中に生まれた優しさからは逃れられない。

それが、確かに生まれた感情なら。
無数にいる人の中で、
その誰かとの間にだけ特別に生まれた感情なら。


そして、優しさとともに、
その誰かが唯一の人であるという転倒が生まれる。
僕が、僕という唯一の人であるのなら、

その誰かは、世界で唯一の人になる。

    僕が、僕という唯一の人であるのなら、その誰かは、世界で唯一の人になる。







  1. 2014年10月14日 21:07 |
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不戦勝


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    両方開く、不戦勝







  1. 2014年10月09日 22:12 |
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優しさ、に関して


優しくなりたいのなら、
他人に優しくなることを目指すのなら、
他人に優しいと思われることを目指すべきだろう。

では、優しくしていることを示すこと、
それが優しいということらしい。
つまり、伝わらない優しさは、優しさではない。

ありふれた言葉をかけて、
上滑りの優しさを示してしまうことへの抵抗感、
そんな途惑いはまったく見当が外れている。

むしろ、ありきたりで平凡な優しさでないと伝わらない。
優しくしたいと伝えることが、
優しさのほとんどすべてと言っていい。


    こんなに当たりまえのことを、
    僕は、昨日まで、知らなかったらしく、
    今日は、途方に暮れている。

    こんなに当たりまえのことを、僕は、昨日まで、知らなかったらしく、今日は、途方に暮れている。







  1. 2014年10月06日 22:14 |
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優しさ、について


端的に言って、優しい人は損をする。

    乱暴に端折って、
    では、優しい、とは、
    自らの優しさに耐えること。


他人の気持ちが分かれば、
それに沿おうとして、
自分の気持ちが置き去りになる。

そして、他人もそんなふうに自分に接してくるだろうという、
根拠のない思い込みがある。
人は自分の物差しでしか世の中を測れない。

    そんなお人好しの物差しで、
    世の中を測るから間違える。

    しかし、間違いはもう承知の上で、
    もはや、自らを、他人よりも満たされない状況に置くことが、
    習い性になっている。

    では、損をするのは、
    損をすることを望んでいるからか?


自他の物差しは、均質な目盛りで照合できない。
譲る人は、いつでも譲っているし、
踏み込む人は、いつでも踏み込んでくる。

踏み込んでくる人は、
他人を隅っこに追いやってから他人の気持ちを考え始め、
そして、そんな自分の優しさを疑わない。

    その優しさは、優位性の確認だ。
    自分の心が満たされていなければ、
    他人に対する優しさは出てこない。

    それにしても、どこまでも勝ち組でありたいと、
    優しさまでも手中に収めようとする心性は、
    なんて欲張りなのだろう。


でも、世の中的には、
それが優しさなのかもしれない。

では、優しさとは、
なんて優しくないのだろう。

    では、優しさとは、なんて優しくないのだろう。







  1. 2014年10月04日 15:37 |
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