tetsugaku poet

qinggengcai

優しさ、雑感 3/x


気づかせることも、
気づかせないことも、
気づくことも、
気づかないことも、
気づかないふりをすることも、

気をつかわせることも、
気をつかわせないことも、
気をつかうことも、
気をつかわないことも、
気をつかわないふりをすることも、

知らせることも、
知らせないことも、
知ることも、
知ろうとしないことも、
知らないふりをすることも、

それぞれ、優しさと言えるだろう。



あるいは、冷たさとも言えるだろう。

それらは、優しさにつなげても、
逆に、冷たさにつなげても、
どちらも成り立つ場合があって、
構文に違和はない。

優しさは、プリセットできるものではない。
型にはめられるものではない。
まるで、色や形を変えながら、
空を移ろいゆく雲のようだ。



どちらも成り立つ場合があるのなら、
優しさが裏目に出れば、
かえって傷つけてしまうときもある。
予想もできない捉え方をされるときもある。

それでも、生まれてしまった優しさは、
表さなければならない。
行為のない優しさは生まれなかったのと同じ、
優しくないのと同じになる。

行動が、優しさの意味を作る。
優しさは、どう表すのかを含んでいる。
その時々に求められた行動を、
引き受けることも含めて優しさだ。

何もしないで、
自己評価だけが上がっていくことではない。

    141128b.jpg

決して、ない。







  1. 2014年11月28日 20:43 |
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優しさ、雑感 2/x


吉野弘の「夕焼け」を誤読してみた。
誤読とは、誤った、正しくない読み方のことで、
正しい読み方なら、
僕は、国語や道徳の授業で教わった。

しかし、正しい読み方だけで、
他人の気持ちが分かるのなら、
誰もたいして苦しまなくてすむ。
分かり合えないから、人は苦しむ。



理由はともかく、
少数派に追いやられた人なら、
自分が世の中的に正しくないことくらい知っている。
容易に理解されないことくらい知っている。

正しくないから認めてほしい。
正しければ、最初から承認なんて欲しがらない。
分からないから分かってほしい。
分かりやすければ、最初から理解なんて求めない。

最大公約数的な正しさは強い。
みんながそう思うことがらは、
根拠がなくても正当性が推定される。
最大公約数的な強さは正しい。



優しさは弱さに沿う、そう思う。
弱っている人に心を寄せて、
感じることから優しさは生まれる。
強くて正しい者には、分からない感性だと思う。

分からないから、強くて正しい者からは、
弱くて間違っているとされるのだろう。
強いとか、弱いとかと、正当性は、
実は、関連性がないけれど。



弱い面は、実際には、分かってもらえるなんて期待もしない。
僕は、弱いだけではなく、強いだけでもない。
弱い面だけを取り上げて、甘えるつもりはない。
世の中は、弱さに冷たいことも知っている。

僕たちは、弱い面を共有し合えれば、
他者の痛みを感じ取る優しさが生まれるが、
強い面を共有し合うなら、他者への優しさも想像力も忘れて、
ただの強者に成り上がり、成り下がる。

    141122.jpg

上の空で、そう思う。







  1. 2014年11月27日 20:51 |
  2. 優しさ
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優しさ、雑感 1/x


優しさは、強さからは生まれない、
そう思っている。
弱さから、優しさが生まれる、
そう思っている。

優しさを、強さと結びつける文脈は多い。
本当の強さ、本当の優しさ、
なぜか、本当の、
なんて形容詞がついてくるから疑わしい。

偽りがないと思っているのなら、
その思い込みが嘘くさい。
甘えがないと思っているのなら、
その思い込みが甘えだ。

本当の弱さ、とは言わない。
本当の冷たさ、なんて誰も考えない。
本当の、なんて形容詞はそんなものだ。
僕は一度も使ったことがない。



弱さから、優しさが生まれる、
僕はそう感じている。
僕が感じたことは、僕には正しい。
手放しで正しい。

人は感じて生きている。
感じてしまったことは、どうにもならない。
表すか、抑えるか、
それくらいのことしかできない。

    141120c.jpg

折角だから、表してみる。







  1. 2014年11月25日 22:01 |
  2. 優しさ
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優しさ、に責められて


吉野弘の「夕焼け」で、
娘が年寄りに席を譲って、
立っていた駅間を数えてみる。

1人目、
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

2人目、
としよりは次の駅で礼を言って降りた。

3人目には席を代わらなかったので、
年寄りは、計2人、
それぞれ次の駅までの1駅間、合計2駅間になる。



1人目と2人目の年寄りは、
満員電車で立っていて、娘の前に押し出され、
最後の1駅だけ座ったことになる。

ありがた迷惑だったかもしれない。
1人目の年寄りは、礼の言葉もなかった。
あと1駅だけですから、そんな台詞が浮かんでくる。

娘にしてみれば、席を譲る行為は、
多少なりとも勇気のいることに違いない。
可哀想に、肩透かしを食らった気分だろう。

裏切られたような気持ちで
またおずおずと座る。
自分ひとりが、余計なことをしている。



二度あることは と言う通り、
その1行は、娘にも掛かる。
そして、娘は思い込んだ。

―― この年寄りも、
きっとすぐに降りる。



しかし、娘は、
席を代わらなかった3人目の年寄りを、
次の駅も、次の駅も立たせることになる。

次の駅より、その次の駅の方が、
最後の1駅間になる確率は上がる。
時間が経つほど、席を代わる意味は薄れる。

―― 時機は失われた。
なんてひどい結末だろう。



この詩の、底意地の悪さはここにある。
作者は、電車を降りたが、
娘と年寄りは、電車から降ろさない。

娘は座り続け、年寄りは立ち続ける。
どちらも、つらい気持ちで、
美しい夕焼けも見ないで。

作者は、この二人に、
何の咎を負わせるつもりか。

    141118a.jpg







  1. 2014年11月18日 23:01 |
  2. 優しさ
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優しさ、に捕われて


吉野弘の「夕焼け」で、

もしも、娘が、
三度目も席を譲ったなら、
作者は、優しいという評価を与えただろうか。

内的な動揺を見せない、
もの怖じしない行動に、
可愛げのなさを感じなかっただろうか。

娘が、平静を装って、
三度目も立ち上がったなら、
可哀想に、なんて同情はいらない。



あるいは、三度目に席を譲らなかった娘が、
平静を装って座っていたなら、
優しいという評価を与えただろうか。

内的な動揺を見せない、
落ちつき払った様子を、
不遜な態度と捉えなかっただろうか。

娘が、平静を装って、
座り続けていたなら、
可哀想に、なんて同情はいらない。



席を譲り損ねたくらいで、
下唇を噛んで、身体をこわばらせているのは、
それを隠せないのは、感情が優位に立ちすぎている。

それを、かわいい、というのなら分かるが、
優しい、というには少し外れている。
作者は、優しさを取り違えているのではないか。



他人のことは行動で判断する。
客観的に、最も優しい行動は、
三度目も平然と席を譲ることだろう。

しかし、作者は、三度目に席を譲らず、
過剰に自責することを優しいと評したいらしい。
自分のことは思索で判断する。



感傷や、弱さや、依存や、恥じらいや、幼さや、
それらは、作者の趣味であっても、
優しさとは関係がないだろう。

それらを優しさと取り違える理由は、
最初から、自分は優しい、という評価が、
伏在しているからではないか。

感傷や弱さを持ち合せた娘に、
同情と共感を寄せる、
そんな自分の優しさは、娘の優しさと等価になる。



可哀想に ――、
娘が行動を起こせなくなってから、
作者は、同情と共感を寄せ始める。

行動が、優しさの意味を作る。
行動することで優しさを表していた娘が、
作者の甘ったるい優しさに取り込まれてしまう。

可哀想に!

    141118b.jpg







  1. 2014年11月16日 15:12 |
  2. 優しさ
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優しさ、に逆らって


吉野弘の「夕焼け」から、
作者の語りを切り離してみる。



                いつものことだが
    電車は満員だった。
    そして
                いつものことだが
    若者と娘が腰をおろし
    としよりが立っていた。
    うつむいていた娘が立って
    としよりに席をゆずった。
    そそくさととしよりが坐った。
    礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
    娘は坐った。
    別のとしよりが娘の前に
    横あいから押されてきた。
    娘はうつむいた。
    しかし
    又立って
    席を
    そのとしよりにゆずった。
    としよりは次の駅で礼を言って降りた。
    娘は坐った。
                二度あることは と言う通り
    別のとしよりが娘の前に
    押し出された。
                可哀想に
    娘はうつむいて
    そして今度は席を立たなかった。
    次の駅も
    次の駅も
    下唇をキュッと噛んで
    身体をこわばらせて――。
    僕は電車を降りた。
    固くなってうつむいて
                娘はどこまで行ったろう。
                やさしい心の持主は
                いつでもどこでも
                われにもあらず受難者となる。
                何故って
                やさしい心の持主は
                他人のつらさを自分のつらさのように
                感じるから。
                やさしい心に責められながら
                娘はどこまでゆけるだろう。
                下唇を噛んで
                つらい気持ちで
                美しい夕焼けも見ないで。

    ―― 「夕焼け」、詩集『幻・方法』/吉野弘著、1959、飯塚書店



娘の前に、年寄りが三度も現れる。
ふつうは驚く。
奇妙なことが起こっているが、娘は驚かない。

作者は、娘を驚かせない、苦笑もさせない。
ただ、うつむかせている。
二度あることは、と受け容れさせている。

            娘は、可哀想でなければならない。

でないと、たかが年寄りに席を譲るとか、譲らないとか、
そんな些細なできごとは、
大仰な、受難者にまで持ち上がらない。



娘は三度目には席を譲らなかった。
席を譲らなかった理由は書かれていない。
娘は、下唇を噛んで、身体をこわばらせている。

作者は、娘に過剰な自責をさせる。
でないと、たかが年寄りに席を譲るごときでは、
優しさというテーマを普遍化できない。

            娘は、席を譲ってはならない。

娘が三度目も席を譲れば、
可哀想でもなく、受難者にもならず、
優しさも見失われるだろう。

    141120b.jpg







  1. 2014年11月15日 22:21 |
  2. 優しさ
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優しさ、に即して


僕の優しさは、僕に生まれた感情で、
僕だけのものといえる。
優しさは、誰かとの関わりで生まれるが、
僕だけのものであることに変わりはない。

だから、誰かのために優しくするのではない。
感情を抑え込まずに、表しただけのこと。
感情が行動化されただけのこと。
結局は、自分のため、と言っていい。

その誰かが、優しさと捉えてくれなくても仕方がない。
もちろん、見返りも求めない。
自分のため、という利己的な動機は、
そのまま利他的に転じる可能性を秘めている。

優しさについて、問いを立てるのはやめよう。
抱えてしまった優しさは、
すでに問いの前に立っている。
抑えても、表しても、優しさからは逃れられない。

優しさを抱えて、行動に移そう。
行動が、優しさの意味を作る。
利己的な感情が純粋であるうちに、
そのまま利他的にも純粋であるうちに。

道徳が介在してくる前に。
不純物が混入する前に。
純粋さは道徳によって汚される。
優しさは、道徳に従った善意ではない。

純粋な、感情の発露だ。

    141120a.jpg







  1. 2014年11月14日 21:44 |
  2. 優しさ
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優しさ、に対して


吉野弘の「夕焼け」には、

娘の行動と優しさ、
ひいては、作者の優しさが書かれているが、
作者の行動が書かれていない。

だから、僕は、
作者の優しさ、に反して
すれ違う組み合わせを作ってみた。

行動を伴わない優しさは、
彼女に対しては、何の意味も持たない。
ひねくれ者の読み間違いが許される所以だろう。


考えることによって、
作者は、何も行動に移すことなく済ませた。
考える人は動かない。

それは作者も知っている。
優しい心に責められているうちは、
彼女は座ったまま動けない。


他人のことは行動で判断するのに、
自分のことは思索で判断する。
作者は気づいているだろうか。

行動が、優しさの意味を作ることを。

    141108.jpg







  1. 2014年11月11日 16:02 |
  2. 優しさ
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愚考と賢慮


独りでものを考えることが好きだ。
子どもの頃からの空想癖をこじらせて今に至る。
僕の考えが、みんなと一致しないことには慣れていた。
だから、意見を求められたときには、
いつもみんなが認める正解を探していた。

みんなと一緒の考えが正解になることには従ってもいい。
でも、なぜみんなと一緒が正解とされる?
なぜみんなと一緒でなければ間違いとされる?
なぜ笑われたり馬鹿にされたりする?
それらは、今でも分からないままでいる。

たいていは、なにも考えていない人の考えが正解になる。
ものごとは、自分で考えれば考えるほど、
世の中から外れて、独自の発想になるから。
みんなと一緒が正解とされるのなら、
独創的な考えは愚考にほかならない。

しかし、愚考は、表さなければ愚考ではない。
表現することを僕が許容するから愚考になる。
愚かさとは、愚かさを表すことを許すことで、
みんなと違っていることを知らないということだ。
それは確かに愚かなことだろう。

賢慮も、表さなければ賢慮ではない。
表現しなければ、僕は少しも賢くは見られない。
賢さとは、賢さを表すことを望むことで、
みんなと一緒であることを知っているということだ。
それは確かに賢いことだろう。


検索窓に語彙を打ち込めば、
Googleは、次に予測される語彙を表示してくれるから、
検索候補に逆らわないでいると、
ついつい最大公約数的な考えに誘われて、
思いがけず、賢くなってしまうから困る。

検索は思索ではないが、
書いているうちに、違いがあいまいになってくる。
ネットから拾ってきて編集して、
またネットに返せば、賢者が増えて、
また最大公約数が大きくなる。

僕はますます愚かになるが、それでも構わない。
自分でも望まないうちに、うっかり賢くなるよりは。

    141028.jpg







  1. 2014年11月03日 16:51 |
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