tetsugaku poet
地獄には、食卓の上にご馳走と、
三尺もある長い箸が置かれている。
箸が長すぎるため、思うように食事ができず、
人々は、いつも空腹で苦しんでいる。
極楽にも、食卓の上にご馳走と、
三尺もある長い箸が置かれている。
人々は、長い箸でご馳走をつまむが、
自分の口に運ぶのではない。
向かい合う人の口へと運び、
互いに食べさせ合っている。
極楽では、
知らない人どうしで食べさせ合う気まずさよりも、
食欲を満たすことが優先される。
慾にまみれた鈍感な人でなければ極楽では暮らせない。
極楽では、性欲も満たされるだろう。
地獄では、自分の手でオナニーをするが、
極楽では、人々は、……をつまむが、自分の口へ運ぶのではない。
向かい合う人の口へと運び、互いに……。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。
満足した馬鹿であるより、
不満足なソクラテスであるほうがよい。
―― 功利主義論、J.S.ミル
太った豚よりも、やせたソクラテスになれ。
僕は、地獄に行こう。
『世界の名著 38』、関義彦 訳、
1967、中央公論社
- 2015年04月28日 20:17 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:14
ポジティブと馬鹿をイコールで結んで、
乱暴だけど、このまま続ける。
ポジティブは馬鹿、とくに理由はいらない気がする。
きっと、ポジティブな人たちも、
そんなふうにものごとを決めている。
落ちている人を見つけたら励ます、
そんな条件反射ができているらしい。
ポジティブな人には、信じられないかもしれないが、
他人が落ち込んでいることと、自分が励ますことの間には、
実は、何ら必然的な関連はない。
そして、信じられないかもしれないが、
落ちている人は、必ずしも、
誰かに励まされることを欲していない。
当りまえのことだが、他人のほとんどは、
自分の思惑どおりの在りかたをしているわけではない。
誰が世の中をどう思っていても、
それで一向に構わないが、
他人も同じと思い込むのはどういう料簡だろう。
ポジティブな人たちの間では、
他人と自分との差異はそんなに小さいのか?
ポジティブな人たちの言葉は、
たやすく予想がついて、分かりやすい。
対して、ネガティブな人たちの言葉は、
人それぞれで、分かりにくくて、うまく伝わらない。
それは、自分の言葉で考えたことだから。
ポジティブは、相手を選ばない。
誰にでも主張できる単純な正しさがある。
ネガティブは、分かってくれそうな相手を選ぶ。
問題を共有できない人に話しても仕方がない。
誰もが、自分が考えた形跡をトレースしてくれるわけではない。
考えない人とは、何かを共有することはできない。
共有するものが何もない。
たやすく想像がつくような、
安直な言葉が返ってきても、
受け取りたくはないだろう?

- 2015年04月27日 18:08 |
- 自分らしさ
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
考える人にとって、
考える、ということは、
考えてしまう、ということだ。
考える理由なんてない。
気がつけば、何かを考えている、
それは、きっと、楽しいからに違いない。
考えようとしても、考えられない人は、
考えることが楽しくないのだろう。
かんたんなことだ。
ところで、ポジティブな人にとって、
考える、ということは、
ネガティブなことらしい。
独りで悩んでいても仕方がないでしょ、
なんて言ってくる。
もちろん、仕方がないことはない。
考えること、それじたいには、
ポジティブもネガティブもないと思うが、
くよくよするな、などと止めにくる。
ポジティブなくせに、
考えることについては、なぜかネガティブだ。
それなら、僕は、ポジティブな人たちを、
馬鹿と言い換えてみよう。
- 2015年04月26日 21:02 |
- 自分らしさ
-
| トラックバック:0
-
| コメント:8
言ってしまった言葉は、
言いそびれた言葉とともにある。
言えなかった言葉の行方を追っている。
選んだ選択肢の先にある今は、
選ばなかった選択肢とともにある。
選べなかった別の時空を描いている。
言えなかった言葉も、
選べなかった未来も、
きっと後になってから作られる。
その時々には、いつだって、
言える言葉しか言えない、
選べる選択肢しか選べない。
言えなかった、選べなかった、
そう気づいたときにはじめて、
言葉が生まれ、選択肢が生まれるのだろう。
言葉は、今、生まれた。
選択肢は、今、生まれた。
ならば、その言葉を抱えて、岐路に立て!
もう一度!
- 2015年04月25日 20:36 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:6
自分のことは、都合よく盛って、
盛りすぎたなら、控えめぶって、少し減らして、
しかし、謙遜することでさらに盛りつけて、
つまり、内側からの判断でどうにでもなれる。
他人のことは、外側から判断するほかはないのに。
他人の内側に汚いものを見つけることは、
自分の内側に汚いものを見つけることにほかならない。
僕たちは、他人の内側なんて、
分かるようにはできていないから。
自分を罵る声がやまない。

- 2015年04月23日 13:26 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
まわりになじまない人がいて、
なじめない人がいて、
なじんでいるように見える人がいて、
自ずから同調できる人と、
無理をしながら合わせている人がいる。
その無理を、隠さない人がいて、
隠せない人がいて、
隠し通せる人がいて、
平気で無理ができる人がいて、
無理して無理をする人がいる。
それぞれの気持ちが、
なんとなく分かるのなら、
僕の僕らしさは、たぶん、ひとつではない。
そして、僕がその集まりでどんな人になっても、
僕は、屈託を抱えることになるだろう。
集団になじめない人は、
変わり者で、かわいそうな人、
ふつうは、そう評価される。
ふつう、とは、世の中の、画一的な、
単純化された秩序と言ってもいい。
当りまえ、と言ってもいい。
当りまえだから、考えなくてもいい。
当りまえには、説明はいらない。
違うことの説明は、
違うと思っている側に求められる。
当りまえのことを考えること、
考えなくてもいいことを考えること、
説明しなくてもいいことを説明すること。
分かる人には何も言わなくても分かるが、
分からない人には何を言っても分からないこと。
僕は、それを、
屈託と呼ぶ。
- 2015年04月21日 12:52 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
結論、11
僕は、それを、
屈託と呼ぶ。
結論、12
僕のDNAの塩基の並びには、
どんな思いが刻まれているのだろう。
僕が、今、ここにいる、
ただそれだけのために。
結論、13
猫は快適な場所にいる。
ケルトの人たちは、君の眼を、
他界への入口と考えた。
結論、14
僕たちの世界は、
別のようにもあり得るか?
例えば、猫のようにでも。
結論、15
この破綻しかかったプロットは、
容易に指摘しうる綻びを見せておいて、
かわりにもっと大きな綻びから目をそらすための、
仕掛けではなかったか?
結論、16
相似形は、小さな差異を際立たせる。
結論、17
太陽と地球が相互に動いていると考えるなら、
そう考えただけで、
無限の軌道が生まれるだろう。
結論、18
今宵は、三日月。
星座の海に浮かぶ舟。
上弦の舳先(へさき)を天頂に向けて、
舟は今、地平を離れたばかり。
結論、19
正義は、たくさん人を殺す。
神も、自由も、平等も、
人権思想も、民主主義も、
いつだって、それらに楯つく者の何倍も。
結論、20
こんな結論も、
あるのかもしれない。
- 2015年04月20日 19:54 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
結論から書くのが基本だ。
結論が分かれば、僕の考えていることくらい、
容易に察しがつくだろう。
その方が僕も、手間が省ける。
結論、01
誰の心も、自分なりの論理を持っている。
そして、それは、翻訳が可能とは限らない。
結論、02
空は、空いっぱいに虹を映したから、
僕は、僕の視界は空いっぱいを収めるのだと気がついた。
結論、03
雨は1000年降り続く。
空の水がすべて落ちて、
地表を覆い尽くした。
海が生まれた。
結論、04
しかし、僕たちの世界が、
それ自体客観的に存在していること、
それだけですべてが描き出せるのなら、
世界はどんなに簡単だろう。
結論、05
夜明け前のワシントンの三日月の暗い側は、
真昼のバグダッドの光が照らしている。
結論、06
瞬間に永遠が訪れる。
僕たちは、そんな場所にいる。
結論、07
人が神を理解するなら、
同時に神の絶対的超越性が剥奪される。
人はもはやそれを、神とは呼ばない。
結論、08
それは、正義が解消できない対立を無効にするが、
僕たちの正義は、自己犠牲に頼ることを許さない。
しかし、正義が許さない自己への不正を、
他者に向ける愛は許すだろう。
結論、09
月は、僕たちの手が届かない場所にあることを示しながら、
僕たちを照らしている。
結論、10
そして、僕は、僕の結論が、
少しも正しくないことを願っている。
- 2015年04月19日 20:57 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
自分がうまく定まらなくても、
確かに、他者はいる。
たくさんの他者がいて、
僕はまとめて、みんな、なんて呼んでいる。
僕もみんなを構成するメンバーだから、
どこかでみんなに回収されることは予想がつくが、
実は、僕は主要なメンバーで、
さらには、僕だけでみんなを作り出すこともできる。
みんな、とは、多少なりとも幻想だから、
みんなに認めてもらうことは、
多かれ少なかれ、程度の差はあっても、
自分で自分を認めることを含むのだろう。
みんなに認めてもらえるような選択をする、
その面から観れば、個性とは、没個性の謂いになるが、
しかし、みんなの価値観を作り出す独自性には、
個性があると言えそうだ。
いずれにしても、大切にされる個性とは、
世の中から歓迎される没個性であり、
大切なものを大切にする、
そんな同語反復にすぎない。
大切にされない、
むしろ、馬鹿にされるような、
誰からも相手にされない個性のほうに、
個性は宿るのに。
- 2015年04月19日 20:47 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
僕から、何を切り取れば、
僕の個性として示せるのだろう。
僕から、何を切り捨てれば、
僕の個性が残るのだろう。
その前に、
僕じたいがうまく切り取れない。
僕は、世界に溶け出していて、
どこまでが僕なのかが分からない。
切取線を描いたつもりにはなれるが、
くり抜くことは困難だ。
違和があるから僕でいられる。
違和が僕をつくっている。
違和でくり抜かれた残りが僕であり、
僕は違和でできている。
僕とは、違和で、不調和で、
対立で、混乱で、軋轢で、
僕が世界を排斥して、
僕が世界から排斥されること。
なるほど生きにくいのは当然だが、
なんのことはない、
おおよそはうまく折り合っていて、
ほとんど世界と同化している。
違和がない部分は、
何も気づくことができないだけだ。
ほかの誰かからしてみれば、
僕は、ありふれた世界の点景に見えるだろう。
- 2015年04月19日 17:01 |
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2