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ラカン 7/x ―― 愛とは、持っていないものを与えることである


        愛とは、持っていないものを与えることである。
        ―― ジャック・ラカン



ラブラブの二人なら、
分かり合える者の間でなら、
愛、なんて言葉は、わざわざ問いには上がらない。
言葉を選ぶより、笑い合うほうがいい。
僕たちは、分からなくなってから、
笑えなくなってから、その言葉の意味を問う。

感受性が同じなら、
感受性は、問題とはしない。
同じ感受性を備えている人には分かるが、
備えていない人には分からないような、
感受性を異にする者が互いに見過ごすものを、
捉える能力を感受性と呼んでみるのなら。

では、愛とは、分かり合えない者、
言葉が通じ合わない者、
感受性や、価値観を異にする者、
つまり、愛を欠く者に対する言葉ではないか。
―― 愛とは、持っていないものを与えることである。
分かり合えなさに抗って。


自分を殺す、とは、
感受性の自殺を意味する。
好き、嫌い、そんな感受性の回路を切って、
感度を下げる戦略になる。
嫌い、の感度が鈍くなれば、
しばらくは、平穏に過ごせるだろう。

しかし、残念なことに、
好き、のアンテナだけを尖らせることはできないから、
総量としての、愛の情報量が減ってしまう。
極端な二分法に振り分けるなら、
感性的なアクセスを断って自足するか、
好き、から得られた愛を、嫌い、に横流しで与えるか。

―― 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
マタイ、5、44



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  1. 2015年11月30日 12:56 |
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ラカン 6/x


        愛とは、持っていないものを与えることである。
        ―― ジャック・ラカン

        私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
        なぜならそれではないのだから。
        ―― ジャック・ラカン



こんなテクストなら、
解釈だけがある。
正しさはいらない。
こんなテクストなら、
誤読は避けられないから。

誤読したくなければ、
自らの外側に、
正しさを求めればいい。
その誰かの解釈を、
正確にトレースすればいい。

考えることは、義務ではない。
権利だから、放棄してもいい。
自分で考えないのなら、
間違いは回避できる。
もとより、間違うことはない。

ただし、その正しさは、
宗教か、それに等しい正しさだ。
それでも、その正しさも、
僕は認めるから、その代わりに、
僕の間違いも認めてほしい。

僕は、懲りもせずに、
あと2、3回は、間違えるから。
もはや、哲学でも、
心理学でもなく、
謎かけの類(たぐい)になったとしても、

なにも考えないよりは、
余程いいと思うから。



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  1. 2015年11月24日 22:41 |
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ラカン 5/5 ―― 愛とは、持っていないものを与えることである


        愛とは、持っていないものを与えることである。
        ―― ジャック・ラカン

        私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
        なぜならそれではないのだから。
        ―― ジャック・ラカン



テクストは、そのまま読めばいい。
単純な僕なら、そのまま単純に読めばいい。
底意も、秘密も、なにもない。
どのみち、たいして意味のある言表ではない。

振り出しに戻って、
世界でいちばん簡単なラカンを示そう。



    彼女は、桃の木を見つけた。

    彼女は、桃が欲しくなった。
    彼女は、自分では桃をもぎ取らない、
    という条件つきで桃を欲しがる。
    ―― つまり、与えてほしい。

    彼女は、彼に告げる。
    「桃の木があるよ」
    ―― 彼女は、彼が彼女に桃を与えてくれることを予期して、
    彼に桃を与える。

        愛とは、(彼女が)持っていないものを(彼に)与えることである。


    彼女は、彼に桃を与えて、
    しかし、心の中では、
    彼が受け取らないことを彼に頼んでいる。
    彼女が望んでいることはそれではない。

        私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
        なぜならそれではないのだから。



愛という感情を、
彼からもらいたいときは、
レヴィ=ストロースのせちがらい贈与など、
軽々と超えるものであってほしい。

彼から桃を手渡された彼女は、
彼女が欲しかったものは、
桃ではなくて、なんでもよくて、
なにかではなくて、ただ単に彼からなにかを、

与えてほしかったことに気づくだろう。



高い場所に実をつけた
桃に手が届くように
君を抱き上げることさえ
思いつきもしなかった

独り占めすればいいのに
地面に足をつけた君は
一緒に食べようと笑うから
桃はもっともっと甘く香る
―― 『桃』/槇原敬之


        最良のラカン読解法とは、
        ラカンの読書法をみずから実践すること、
        すなわちラカンとともに
        他者のテクストを読むことではなかろうか。
        ―― 『ラカンはこう読め!』/スラヴォイ・ジジェク



        single 『Home Sweet Home』
        槇原敬之 作詞、作曲/2001、Warner Music Japan



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  1. 2015年11月21日 12:14 |
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ラカン 4/x ―― 愛とは、持っていないものを与えることである


        L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas
        ―― Jacques Lacan, Le Séminaire livre V Les formations de l'inconscient 1957-1958
        愛とは、持っていないものを与えることである
        ―― ジャック・ラカン、セミネール第5巻

        Je te demande de me refuser ce que je t'offre parce que : c'est pas ça
        ―― Jacques Lacan, Le Séminaire livre XIX …ou pire 1971-1972
        私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む
        なぜならそれではないのだから
        ―― ジャック・ラカン、セミネール第19巻


ラカンらしい、謎めいた言い回しだ。
この言表の謎を解く鍵は、
ラカンが持っている、とは限らない。
鍵は、ラカンとともに読む、
他者のテクストの中にある。


        最良のラカン読解法とは、
        ラカンの読書法をみずから実践すること、
        すなわちラカンとともに
        他者のテクストを読むことではなかろうか。
        ―― 『ラカンはこう読め!』/スラヴォイ・ジジェク


50年代の終わりで、
「贈る」といえば、レヴィ=ストロース。
55年『悲しき熱帯』、58年『構造人類学』、
鍵は、きっと、
レヴィ=ストロースが持っている。


        パートナーたちは、自分が贈った相手からは返礼を受け取らず、
        自分が贈られた相手には返礼をしない。
        あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取るのである。
        これは相互性のサイクルであるが、一つの方向に流れている。
        ―― 『構造人類学』/レヴィ=ストロース


「自分が贈った相手からは返礼を受け取らず」は、
「私があなたに贈るものを拒絶して」に、
「あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取る」は、
「持っていないものを与える」に、
それぞれ対応させてみようか。


ラカンの二つの言表を、
レヴィ=ストロースっぽく説明しよう、
と思ったけれど、結論まで見えているから、
もう、おもしろくない。
このアイデアは、捨てよう。

また、振り出しに戻そう。



        『構造人類学』/クロード・レヴィ=ストロース 著、
          荒川幾男ほか 訳、1972、みすず書房



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  1. 2015年11月20日 19:52 |
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ラカン 3/x


振り出しに戻そう。
そこまで戻らなくてもいいくらいに。
呆れるくらいに戻そう。
すなわち、
―― 僕にとって、哲学とはなにか?


        読書は、他人にものを考えてもらうことである。……
        ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、
        しだいに自分でものを考える力を失って行く。……
        しかしこれこそ大多数の学者の実情である。
        ―― 『読書について』/ショーペンハウアー


哲学書を読むことは、哲学ではない。
誰かになにかを考えてもらうことに過ぎない。
難解で知られるラカンを読むことの困難さは、
ラカンが考えたことを理解する困難さである。
自分でものを考える困難さではない。

ラカンは、ラカンと、
ラカンにとっての世の中について考えた。
ラカンは、僕と、
僕にとっての世の中について考えたわけではない。
そんなものは、誰も考えてはくれない。

それは、僕のほかには、
誰にも考えられないことだから。
ラカンが教えてくれるのは、
僕と、僕にとっての世の中を、
ラカンっぽく考える技術である。


        最良のラカン読解法とは、
        ラカンの読書法をみずから実践すること、
        すなわちラカンとともに
        他者のテクストを読むことではなかろうか。
        ―― 『ラカンはこう読め!』/スラヴォイ・ジジェク


僕は、ラカンではない。
自分でものを考えるのなら、
ラカンとは異なることを書く。
ラカンが書いたことを書いても意味はない。
すでにラカンが書いている。

もちろん、誰かが、
哲学書を読むことを哲学にしていても、
それで、ぜんぜん構わないが、
その人が、ラカンを正解とするのなら、
僕は、必ず間違えることになる。

どうして、そんなに正しいことばかり書くのか。
僕には、間違えることしか書けないのに。


        紙に書かれた思想は一般に、
        砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。
        歩行者のたどった道は見える。
        だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、
        自分の目を用いなければならない。
        ―― 『読書について』/ショーペンハウアー



        『読書について 他二篇』/ショウペンハウエル 著、
          斎藤忍随 訳、1983、岩波文庫
        『ラカンはこう読め!』/スラヴォイ・ジジェク 著、
          鈴木晶 訳、2008、紀伊國屋書店



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  1. 2015年11月19日 23:12 |
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ラカン 2/2 ―― 私があなたに贈るものを拒絶してくれるように頼む


        Je te demande de me refuser ce que je t'offre parce que : c'est pas ça
        ―― Jacques Lacan, Le Séminaire livre XIX …ou pire 1971-1972
        私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む
        なぜならそれではないのだから
        ―― ジャック・ラカン、セミネール第19巻

またしても、謎の言い回しだ。


ラカンは、意味を明らかにしていないから、
世界でいちばん簡単なラカンを示そう。
        愛することは常に拒絶することを引き起こす
        ―― ジャック・ラカン、セミネール第8巻
そのとおり、いずれにしても、
拒絶されることになる。


恋の始まりにおいて、
「私があなたに贈るもの」は、
恋する者が、対象に一方的に働きかける関係にある。
片方向の関係が目指しているのは、
早々にその関係を終わらせること、
つまり、その関係が拒絶されることだ。

恋愛は、目的合理性から、
間主体性への移行である。
「なぜならそれではないのだから」、
最後の、この部分には、
願いが込められている。
他者に託した間主体性が込められている。

欲しいものは、
まず、他者に与えなければ得られないが、
僕が欲しいものは、それではない。
僕が贈ったものではない。
単なる反対給付ではなく、
まだ、ここにはないものである。


もちろん、ラカンは、
そんなことは言っていない。
僕の単純な理屈との間に、
偶然に暗号表が符合しただけのこと。
似ているものがあるとすれば、
愛を表わすときの、困難さだけ。



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  1. 2015年11月17日 23:02 |
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ラカン 1/x ―― 愛とは、持っていないものを与えることである


        L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas
        ―― Jacques Lacan, Le Séminaire livre V Les formations de l'inconscient 1957-1958
        愛とは、持っていないものを与えることである
        ―― ジャック・ラカン、セミネール第5巻

ラカンらしい、謎の言い回しだ。
ふつうに考えると、矛盾する。

「持っていない」の主語は、
相手ではなく、自分である。
相手が持っていないものを、
自分が分け与えるのではない。
ラカンは、自分が持っていないものを、
相手に与える、と言う。

ラカンの言うことは難解だが、
もしも難解でないとしたなら、
僕の単純な理屈に沿う。
ラカンの言う「持っていないもの」を、
「まだここにはないもの」とすれば謎が解ける。
世界でいちばん簡単なラカンを示そう。


間主体性、
交換不可能性、
単独性、
恋の始まりにおいて、
そんなものは、僕は持っていない。
持っていないのに、与えることになる。


そんなことは、ラカンは言っていない。
そのとおり、ラカンは、
どのようにも意味を明確にしていない。
つまり、たいして意味のある言表ではない。
説明不要の、当りまえのことだから、
言葉どおりに捉えればいい。


ラカンが難解だとしたなら、
単純な僕にはお手上げだ。
利口な人たちに読み解いてもらうしかない。
「愛とは、」などと切り出されたときに、
自らの愛情の豊かさ示すように結論しなければ、
収まりが悪いと思う人たちに。


テクストは、そのまま読めばいい。
単純な僕には、なにが難解なのか、
分からないくらいに簡単だ。
底意も、秘密も、なにもない。
温かい心の持ち主は、
温度を上げてしまうのかもしれないが、

冷たい僕に読まれるテクストは、
零度である。



        『無意識の形成物(下)』/ジャック・ラカン、
          ジャック=アラン・ミレール 編、
          佐々木孝次、原和之、川崎惣一 訳、2006、岩波書店



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  1. 2015年11月16日 20:21 |
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それを、愛と呼べ


僕たちは、うまくやろうとして、
たいしてうまくはできない。
立派なことなんて、とてもできない。
できる気がしない。

どちらかといえば、誰かを、
がっかりさせてしまうことばかり。
喜んでほしかったのに、
逆に、悲しませてしまうこともあるくらい。


だから、語られなかった思い、
伝えられなかった思いが、
数限りなくあることを、
僕たちは知っている。

知ることができない、
深い愛がこめられた物語が、
数限りなくあったことを、
僕たちは信じている。


愛と呼ぶには、みっともなくて、
少し悲しいくらいに示されるもの。
こんなところには愛なんてないと、
冷笑とともに見過ごされるもの。

それを、愛と呼べ。


それらを拾い上げることで、
僕たちは、数限りない、
僕たちに知らされていない物語への信仰を、
強くすることができるだろう。

それを、愛と呼べ。



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  1. 2015年11月09日 20:07 |
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愛、って言うな 9/9


恋愛は、交換可能性から、
交換不可能性への格上げだ。
しかし、交換不可能性へ格上げさせたから、
恋愛が成立したのだろうか。
格上げは、望んでそうなるものだろうか。

恋愛は、偶有性から、単独性への引き上げだ。
しかし、単独性へ引き上げたから、
恋愛が成立したのだろうか。
自分の気持ちは、思いのほか、
自分の思い通りにはなってくれないのではないか。

成行きは、きっと、逆である。
格上げ、引き上げから逃れられなかった関係が恋愛だ。
そのことに気づいていても、いなくても、
おそらく、逃れられないことには変わりはない。
きっと、どうしようもないことなのだろう。

そうなってしまった、
としか言いようがないが、
世界で唯一の人になった誰かに、
仕方がないから、承認を与えよう。
拒否することも、できないのだから。

交換可能な存在を、
交換不可能な存在に昇格させるもの、
それは、共に過ごした時間によって、
変わってしまった現在である。
これも、望んでそうなるものではないだろう。

そのことに気づいていても、いなくても、
変えることができない経歴と、
逃れることができない現在が、
誰かを交換不可能な存在にする。
これも、どうしようもないことなのだろう。

かけがえのない人になった誰かに、
仕方がないから、承認を与えよう。
拒否することも、できないのだから。
そして、僕たちは、その承認を、
例えば、運命、と呼んでいる。

あるいは、愛、と呼んでいる。



みんなが、それを、運命、と呼ぶから、
僕も、それを運命と呼ぶ。
みんなとは、どこかにいるみんなではなく、
僕が、それを運命と呼ぶみんながいるだろうと、
思うことで現れるみんなである。

みんなが、それを、愛、と呼ぶから、
僕も、それを愛と呼ぶ。
愛は、みんなはそこに愛があると思っているのだろう、
そう僕が思うことで、愛になる。
僕は、意味が分かって、言葉を使っているわけではない。

愛は、よく分からない名辞だが、
超越性が求められるほどに、
どうしようもないことに対して、
使われる言葉なのだろう。
では、僕なんかに分かるわけがない。

だから、愛、って言うな。
僕なんかに分かるのなら、愛の超越性が奪われる。



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  1. 2015年11月07日 15:07 |
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愛、って言うな 8/9


        友達なら、最初から、
        交換不可能な関係を目指すことはない。
        替えがきかなくなってから、
        かけがえのない友達になったことに気づく。
        交換不可能になった関係が友達だが、
        それでも、入れ替わるのが友達といえる。

        間主体性、交換不可能性、単独性、
        それらは、それらを備えてからでないと語り得ない。
        では、それらを目指す恋愛には、
        思い込み ―― 虚構が必要になる。
        連ドラ、映画、小説、漫画、流行りの歌、
        それらの虚構は、虚構に寄与する。

        膨大な虚構のアーカイブにアクセスして、
        まだ、ここにはない交換不可能性が、
        近い将来にあると思い込まなければ、
        見切り発車はできないだろう。
        演劇性や虚構性は、
        恋にはすでに織込み済みである。



        恋の始まりにおいては、
        台本に沿った分かりやすい演技が求められる。
        僕が恋人役を演じているのに、
        相手が友達役や同僚役に徹しているのなら、
        僕の役どころは、片想いになる。
        それはそれで仕方がないことだが。

        恋愛が成り立てば、
        よくある恋人らしさはいらない。
        逆に、よくある、らしさを求めている限りは、
        お互いに、まだ交換可能だと言える。
        偶有性から、単独性に、引き上がっていない。
        恋人らしさとは、らしさを求めないことである。

        舞台に立ってのパフォーマンスが、
        台本 ―― 世間や、常識や、
        習慣や、思考の型、に拘束されていると、
        つまらない芝居になってしまう。
        だから、お互いに対しては、
        もう演技はいらない。

        演技の基本は、模倣だ。
        もう誰の真似もしなくていい。
        演劇、つまり、虚構は終わった。
        演技性パーソナリティ障害も治まり、
        虚言を呈することもなくなるだろう。
        自分を丸出しにはしないけれど。



とにかく、愛、って言葉が多すぎる。
混同される概念に、恋愛、があるから、
恋愛に関することがらを、
ふるいにかけてみよう。
ふるい落とされた残りの、
どこかに愛が見つかっただろうか。



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  1. 2015年11月06日 12:47 |
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