何につけても、
始まりは、そんなものだ。
例えば、建物を作るときに、
設計図がなければ、全体が分からない。
それでも、キッチンに作りつけの収納の、
引き戸の取っ手のデザインが気に入れば、
建物全体を好きになる、
そんな契機としては、じゅうぶん過ぎる。
恋は、細部から始まる。
他人の全体なんて分からない。
細部からは、見通せるはずのない、
その全体を見越して好きになる。
その細部を延長しても、拡大しても、
きっと、その人にはならないのに。
愛とは、持っていないものを与えることである。
―― ジャック・ラカン
私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
なぜならそれではないのだから。
―― ジャック・ラカン
恋は、演劇性を求められる。
見よう見まねの模倣で、
演じる場面から現れる、
演劇的な効果を恋と呼ぶ。
演劇のくせに、全体のプロットを持たないままに、
小さな場面が積み上げられる。
即興のライブだから、
細部は、小さな場面の、役者たちの中にある。
細部から全体に向かうときは、
その全体は、誰にも分からない。
全体から細部に向かうときには、
多くの意味づけが行き渡っているのに対して。
神は細部に宿る。
―― ミース・ファン・デル・ローエ
建物は、細部の収まりがよくないと、
全体の価値が損なわれる。
細部は、現場で決められる。
当初の設計では、詰められない。
なにを作っているのかさえ、
分かっていなかったのに、
気がつけば全体に行き着いて、
なにやら、でき上がったものがある。
でも、僕たちは、いつだってうまくいかない。
どうやったらこんなものができるのだろう、
苦笑しながら、細部の集積を、
懐かしく眺めてみる。
そして、喩えようもないそれを、
例えば、愛と呼んでみる。
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- 2015年12月12日 20:43 |
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意地悪をしてしまうこと、
そっ気なさを装うこと。
持っていない「嫌い」や、
「無関心」を与えてしまうこと。
持っているのは、それらではなく、
「好き」や「関心」なのに。
愛とは、持っていないものを与えることである。
―― ジャック・ラカン
僕の「好き」は、
彼女の理解が可能になるまで歪曲されて、
おそらく「嫌い」に書き換えられる。
その実質は、彼女による、
僕の感情の創造であり、
僕の「好き」は変わらない。
私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
なぜならそれではないのだから。
―― ジャック・ラカン
どうして、僕は、
僕の邪魔ばかりするのだろう。
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- 2015年12月11日 21:01 |
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他人のことは、行為で判断する。
自分のことは、気持ちで判断できるのに。
行為は、必ず演劇性を備える。
例えば、優しさは、
相手が優しくされていることを理解することで、
優しさになるから。
他人に通じる可能性がないような、
私的な言葉や所作は、意味をなさない。
優しくしたい相手には、
優しい人を演じることになる。
そうしないと、優しくしたことにも、
優しくされたことにもならない。
僕は、彼女に優しくしたかったから、
優しい言葉を選んだけれど、
それは、僕が優しい人に思われるために、
選んだ言葉ではない。
自分のためにかけた言葉ではなく、
彼女のためにかけた言葉だ。
彼女には、優しさだけが届けばいい。
僕は、彼女に、
優しい人だと思われても困らないほどの、
優しさは備えていないから。
それほど多くの、
優しさは持ち合せていないから。
愛とは、持っていないものを与えることである。
―― ジャック・ラカン
優しい人に思われることなしに、
彼女に優しさを与えたいのなら、
気づかれないように、
優しさは、控えめに隠される。
隠された優しさは教えてくれる。
きっと、僕に対しても、
僕には知ることができなかった隠された優しさが、
数限りなく、向けられていたことを。
私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
なぜならそれではないのだから。
―― ジャック・ラカン
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- 2015年12月10日 20:58 |
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恋の始まりにおいては、ことさらに、
恋は、演劇性を求められる。
つまり、デートをして、手をつないで、
キスをして、エッチをする。
それらが演劇でないとしたら、
誰もが、おおよそ順番を守り、
誰もが、おおよそ同じ行為をする、
その理由が見つからない。
テレビや、映画や、漫画や、小説や、
誰かから聞いた話や、流行りの歌や。
僕たちは、よくある台詞と、よくある所作で、
よくある演劇を再現する。
誰もが同じ行為をするから、
役者がなにを演じているかが分かる。
役者は、観客を模倣し、
観客は、役者を模倣する。
例えば、自転車に乗る、駅までの道を歩く、
日常の自然な行為においては、
行為の目的を意識すれば、
行為する身体は、意識しなくてもいい。
例えば、箸を使う、キーボードを打つ、
自分の身体を意識しなくても、
そんな高度なことができるのに、
彼女と、簡単に手をつなげない。
自分の身体の動静を、
意識することが非日常である。
僕は、自然に手をつなぐような、
身体性を持っていないことに気づく。
愛とは、持っていないものを与えることである。
―― ジャック・ラカン
箸を使うことも、
キーボードを打つことも、
模倣から始まったが、
もう誰の真似もしなくていい。
日常の秩序を逸脱した、
ぎこちなかった身体も、
自然に手をつなげるようになると、
もう演技はいらなくなる。
私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
なぜならそれではないのだから。
―― ジャック・ラカン
もう誰の真似もしなくていい。
彼女と手をつなぐことは、
僕の日常の中に、
秩序化されている。
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- 2015年12月08日 12:51 |
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欲求が欠乏の函数なら、
愛を求める人は、愛を欠いている。
満ち足りている人なら、
愛を欲しがることはない。
欠乏したままで、愛を与える。
欲しいものは、
まず自分から与えないと、
得ることができないから。
愛とは、持っていないものを与えることである。
―― ジャック・ラカン
得られてしまうと、
満ち足りてしまうと、
求める必要も、
与える必要もなくなってしまう。
僕は、そんなことを、
望んでいたわけではない。
私は、私があなたに贈るものを拒絶してくれるようあなたに頼む。
なぜならそれではないのだから。
―― ジャック・ラカン
それでも、僕は、
与えよう、贈り続けよう。
贈る、ということは、同時に、
拒絶の契機を贈っているのだから。
贈る、ということは、
あらかじめ、または、同時に、
相手が受け取りを拒絶する可能性を、
前提とし、または、発生させる。
贈る、とは、愛が壊される可能性を、
与えることである。
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- 2015年12月06日 12:41 |
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