tetsugaku poet

qinggengcai

ビョークと掛けて


「奈良美智」で解いてみる。
抽出されたのは、
小憎たらしさ、底意地の悪さ、
機嫌のよさと、その悪さ。

つまり、それよりも、
それらそのものよりも、
それらがあふれ出ているような、
丸出し感だった。

海に潜るペンギンも、
ヌーに噛みつくワニも、
もしも表情が表れるのなら、
きっと、ビョークと、

同じ顔つきをしている、
かもしれない。

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  1. 2016年01月31日 20:08 |
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So fuckin' what? 2/2


        それは、90年も前のこと。
        fuckingな宗教批判といえば、
        アントナン・アルトー。
        彼は、血と精液と糞便が大好きだ。


 ……
 過去十万年来、ヨーロッパでは百の戦争が過ぎ去った。そのことにヨーロッパはラサ(チベットの首都)で気がついたのだ。
 御身らの僧侶たちの、いったいだれが、そこで、性的快楽を失ったろう、一回の食事すら失ってはいないのだ。
 御身らこそが、戦争と平和の作り手。
 しかし、御身らの穀物倉に蓄えられた阿片、ヘロイン、モルヒネ、ハシッシュ、甘松、麝香、その他くさぐさの毒物、
 身体としてのこの私が眼にしたそれらの毒物は、いつも定量ずつ割当てられ、
 汚され、いためつけられ、無毒化されたものでしかなかったが、
 そういう御身らの穀物倉は、あそこラサでは、ただの一粒たりと失いはしなかったし、
 阿片もその力を失いはしなかった。
 こんがり炙った御身らの最後の罌栗、その種子もあまり流れださぬうちに、
 御身らは私に会うだろう。
 ――“Adresse au Dalaï-Lama、ダライ=ラマへの上奏文”/Antonin Artaud



 一、私は洗礼を受けたことを否認する。
 二、私はキリストの名前の上に糞をたれる。
 三、私は神の十字架の上で手淫をする(しかし、ピオ十二世よ、手淫はかつて私の習慣になかったし、こんご私の習慣となることもけっしてあるまい。おそらく貴殿は私のことを理解しはじめているはずだ)。
 四、ゴルゴダで磔刑に処せられたのは、私なのだ(イエス=キリストではない)、そして私が磔刑に処せられたのは、立ち上って神とそのキリストとに抗議したためなのだ。
 なぜなら私は一箇の人間であり、
 そして神とそのキリストとは観念にすぎないからだ。
 しかもその観念たるや、人間の手の汚らわしい印しがついている。
 あれらの観念は私にとっては、かつて存在したことがない。
 ……
 ――“Adredde au Pape、ローマ教皇への上奏文”/Antonin Artaud



        fuckingと言うためには、
        言う側も、きれいなままではいられない。
        自らをfuckingに貶めて、
        対象を引きずり落とさなければ。

        馬鹿にされた仏教徒もキリスト教徒も、
        まったく意には介さずに、
        それでも、引きずり下ろされたふりをして、
        下品に応えてやるのが礼儀だと思う。

        So fuckin' what?

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        『神経の秤・冥府の臍』/アントナン・アルトー 著、清水徹 訳、
         1977、現代思潮社



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  1. 2016年01月30日 20:51 |
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So fuckin' what? 1/2


I've walked this earth and watched people
I can be sincere and say I like them

You can't say no to hope,
can't say no to happiness

I want to go on a mountain-top
with a radio and good batteries

play a joyous tune
and free the human race from suffering

I'm no fucking buddhist
but this is enlightenment

The less room you give me,
the more space I've got

This is an alarm-call
so wake-up wake-up now

Today has never happened
and it doesn't frighten me

――“alarm call”/Björk



        それは、20年も前のこと。
        ビョークは、愉しい音楽で、
        人類を苦しみから解き放つと歌った。
        解放されるのは、人類のうちでも、
        彼女の歌が届くような、
        幸福な人たちに限られるとしても。

        「on a mountain-top」で思いつくのは、
        マタイ5章「the Sermon on the Mount/山上の説教」、
        そして、「The less room you give me」は、
        マタイ7章「the narrow gate/狭い門」、あるいは、
        ルカ13章「in through the narrow door/狭い戸口」、
        それらに係るのだろう。

        ビョークによって、
        キリスト教はそれとなく、
        仏教はあからさまに揶揄される。
        仏教は、ただ馬鹿にされるために、
        引き合いに出されたようだ。
        何を指してfuckingなのかも示されないままに。

        仏教は、原理主義者による押しつけもなく、
        宗教裁判も、魔女裁判もなく、
        劣化ウラン弾やクラスター爆弾も伴わない。
        それゆえ、彼女は無警戒に無批判に、
        仏教を誹謗することができた。
        イスラム教に対して、fuckingと言えるか?

        馬鹿にされた仏教徒は、
        もちろん、意には介さない。
        彼女が演じた「Dancer in the Dark」の、
        「Selma/セルマ」のような笑みを浮かべて、
        どうでもいいという気分で、
        応えてやるのが礼儀だと思う。

        So fuckin' what?

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        『alarm call』、album『Homogenic』/Björk、
         1997、Universal
        『聖書 新共同訳 和英対照』、
         1997、1992、日本聖書協会



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  1. 2016年01月30日 20:46 |
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詩論 (`ω´)キリッ 7/7


詩をロゴス
―― 意味や論理とするのなら、
うっかり口に出してしまえば、
他人に笑われそうな痴(し)れ事を、
考えることだと思っている。

詩をパトス
―― 感情や情熱とするのなら、
炎天下では帽子を、
北風に吹かれながら上着を、
脱ぎ捨てることだと思っている。

詩をエートス
―― 慣習や持続的習性とするのなら、
詩を書く意味はないと思っている。
詩には詩らしさはいらない。
詩は、らしさに抗うことだと思っている。

散文では表わせない思いがあるから、
書き手は詩によって書く。
使い古された表現では、
うまく捉えられない感情が、
書き手を詩に向かわせる。

標準や、典型や、固定観念に、
納まってしまいたくない感情が、
書き手に詩を作らせる。
だから、もっともらしさや、
それらしさはいらない。

世間的な、一般的な、常識的な人たちに、
決めつけられることに反発しないのなら、
それは、世間的に、一般的に、常識的に、
すでに詩になって認められている感情であり、
今さら詩を借りて問うこともない。

詩は、詩らしさが詩であることへの、
反発を隠し持っている。



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  1. 2016年01月24日 20:07 |
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詩論 (`ω´)キリッ 6/7


詩論でよく挙げられる詩の要素は、
例えば、音感、韻律、抑揚、語感など。
僕なら、リズム、コード、単語の組み合わせ、
文字列のバランス、行分け、段分けを挙げる。

しかし、個々の細かい部分からは、
詩は明らかにされそうにない。
部分にそれらの要素を混ぜ込んでも、
散文との境界は見えてこない。

では、相互に関連する部分が合わさって、
全体として現れるのが詩になりそうだ。
その判断は、結局のところ、
読み手に任せるほかはないとしても。

詩は、細部に宿り、
その全体は、部分の総和を越える系である。



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  1. 2016年01月24日 19:04 |
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詩論 (`ω´)キリッ 5/x


どんな言葉も、必ず背景を背負っていて、
読み手の心に抽象的な空間を描き出す。
詩は、言葉を重ね合わせることで、
その読み手を抽象的な空間に連れ出そうとする。

詩は、相対的に短い文章で構成される。
情報が少ないほうが、読み手は文章に拘束されない。
読み手は自由に感じ取ることができ、
抽象度を上げたままで読むことができる。

逆説的だが、抽象度が高くなれば、
その分、読み手の情報は多くなる。
言い換えれば、見える情報が少ないほうが、
見えない情報をたくさん保持し続ける。

詩がアクセスを仕掛けるのは、
潜在的な情報であり、
それは抽象的な空間に潜む、
見えない世界に思うことである。

詩に仮託して、見えない世界と交信する。
詩は、見えない世界にある認識の共有である。



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  1. 2016年01月23日 11:17 |
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詩論 (`ω´)キリッ 4/x


たとえ具体的な空間の、
具体的な出来事についての記述でも、
もしそれが詩であるのなら、
そこ書かれているのは、
抽象的な空間の出来事である。

書き手が誘う抽象的な空間は、
心に浮かぶ人には浮かび、
浮かばない人には浮かばないが、
どちらも、それで良くも悪くもない。
誰が悪いわけでもない。

もとより、詩によらなければ、
表現できないものごとは、
容易に分かり合えるものではない。
誰にでも分かることではない。
分かり難くても、それはそれで仕方がない。

詩は、当りまえの表現では現れない空間を、
開き出す試みである。



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  1. 2016年01月19日 23:03 |
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詩論 (`ω´)キリッ 3/x


同じ詩を読んだときに、
読み手によって感じ方が異なっても構わない、
詩には、そんな了解が織り込まれている。

僕たちは同じ詩を読んでいるようで、
それぞれ違う詩を読んでいる、
そう言い換えてもいい。

あるいは、詩はまだどこにもなくて、
読まれるときに初めて生まれる、
つまり、読み手が詩を生み出す、とも言える。

読み手に詩が生まれる。
詩は、読み手による、つかの間の幻影である。



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  1. 2016年01月19日 13:21 |
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詩論 (`ω´)キリッ 2/x


詩を定義することは困難で、
詩の本質は問いになる。
読み手には、詩の成否が問われている。

不成立に終わったとしても、
書き手のせいではなく、
もちろん読み手のせいでもない。

読み手によって読み解かれ、
何行かの感性的な交信の後に、
読み手に詩が成立すればいい。

詩とは何かという問いに、
詩で答えている文章を、僕は詩と呼ぼう。



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  1. 2016年01月18日 12:14 |
  2. 詩論
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詩論 (`ω´)キリッ 1/x


リズムとコードによって、
詩を纏(まと)った言葉は、
読み手を詩に誘う。

散文的な文章から離れた、
詩に色づけられた文章を読むことで、
読み手は詩を読み始める。

言葉や文章なのに、
言葉や文章では語れない、
そんな感情が、読み手に生まれたなら、

どうやらその文章は、
詩であったらしい。



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  1. 2016年01月17日 14:57 |
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