僕たちは、自己の同一性を保ちながら、
他者にはなれない。
なれそうで、なれない。
何をしようとしているのかが、
分かっていそうで、実は、分かっていない。
それは、例えば、正七面体のようなもの。
根拠のない推論だが、
死者になる、ということが、
何者かになる、ということなら、
それは、他者になる、ということである。
だから、死んでも何者にもなれない、
そう考えても大差はない。
蝶の幼虫は、きっと、
やがて空を飛ぶ、なんてことは、
思いもつかないまま蛹(さなぎ)になる。
蛹の中でどろどろに溶けて、
蝶になって蛹から出てくる。
きっと、幼虫だったことも憶えていない。
翅(はね)も、空も、花も、異性も、
幼虫には想像もできなかったこと。
それでも、朝になって、翅が乾いたら、
当りまえのように飛び立てる。
生死について、僕たちに、
何か特権が与えられていたとしても、
たぶん、それは、
蝶と異なるものではないのだろう。
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- 2016年03月31日 17:02 |
- 神
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ようこそ、「神の無理ゲー」へ。
無理ゲーとは、その苛酷な条件、設定のため、
クリアすることが非常に困難なゲームをいう。
「神の無理ゲー」は、その苛酷さに気づかなければ、
クリアできてしまう、あるいは、
降参してしまうことで、クリアしたことになる、
さらには、ゲームを始めなければ、クリアしている、
そんな不思議なルールになっている。
神なら、例えば、僕が見たこと、聞いたこと、
感じたこと、思ったこと、考えたこと、
それくらいはお見通し、そんなルールがある。
でも、僕たちには、それがどういうことなのか、
実は、理解さえできていない。
「神の無理ゲー」は、ゲームを始めてから、
ルールが理解できないことを知る、
そんな不思議なルールになっている。
世界がもし100人の村だったら、
「私」と称する村人が、100人いることになる。
神が全知全能なら、
どの「私」からも世界を見渡せる、
そんな視点を持つはずだ。
しかし、僕の「私」を維持したまま、
他の村人の「私」になることなど、
僕たちにはできない。
僕がなり代わった、他の誰か視点で世界を見渡すのなら、
もはや、僕は、僕であり続けることができない。
他の誰かの記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
それを「私」と称するのなら、僕はすでに他の誰かになっている。
では、僕は、どこに行ったのだろう。
僕がなり代わった他の誰かは、
他の誰かから出て行かなければならないが、
では、他の誰かは、どこに行くのだろう。
手っ取り早く、僕と入れ替わる、として、
他の誰かと僕の、何が入れ替わったと言えるのか。
ところで、もし僕が、僕を維持したまま、つまり、
僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
それらを保ったままで、他の誰かになったなら、
僕は、身体が変わったと思うだろう。
そのとき、僕の元の身体に、
僕の記憶や、心や、意識と呼ぶようなもの、
それらが依然として残っているのなら、
僕はどちらを「私」と称するのか。
僕は、「私」が複数いるときに、
そのどちらも「私」とは称せない。
「私」が複数いると気づいているなら、
「私」と「私」を見渡している「私」がいるはずで、
その「私」を僕は「私」と呼ぶだろう。
それがどういうことなのか、
僕には、分からないけれど。
いずれにしても、僕は単数でなければならないし、
ひいては、僕たちが考える神も、
いずれは、単数でなければならくなる。
浅薄な僕の理解に収まらないのが神というのなら、
複数でもいいけれど。
僕は、game over、
クリアした方は、コメントを。
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- 2016年03月29日 12:41 |
- 神
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『純粋理性批判』っぽく言えば、
神は唯一神になりそうだ。
複数の神がいるのなら、
決まるものも決まらない。
―― それは、カントには、当りまえのこと。
『実践理性批判』っぽく言えば、
神は唯一の神でなくてもいい。
どのみち、未来は決定されていない。
八百万(やおよろず)の神がいてもいい。
―― カントは、そんなことは言わないけれど。
僕の愚直な感想を言えば、
道徳が神を要請するのなら、
その神は「道徳の神」と呼ぶべきだ。
道徳の神は、天体の運行を説明しない。
―― つまり、神の断片でしかない。
僕の純朴な思いつきを言えば、
道徳の神も、天文の神も、
フラクタルな相似形になる。
神々は、自己相似の形で遍在する。
―― だから、無限に神がいても調和する。
神は、葉っぱにも、水たまりにも、
天にも地にも、善人にも悪人にも行き渡り、
それは、無限に神が存在するとも言えるし、
それらが相似形を示すのなら、
―― 唯一神を成すとも言えるだろう。
もちろん、カントには、
多神教など、頭の片隅にもないけれど。
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- 2016年03月26日 22:43 |
- 神
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人なんていないほうが、
地球にとっては、よかったのかもしれない、
僕たちは、そんな発想を持つようになった。
地球のことを考えて、のことだろう。
しかし、そんな視点は、僕の限界を越える。
それは、地球のことを考えて、ではない。
人にとって都合のいい環境を考えて、である。
地球のことを考える、なんてことは人には無理だ。
人に都合の悪い環境に向かうことを、
環境破壊と呼ぶ限りは。
人なんていないほうが、
地球にとっては、よかったのかもしれない、
そんな謙虚さよりも、
僕の限界を越えるものごとは、
僕には認識できない、
そんな謙虚さを選びたい。
完結したカントの威で、自らを誇るよりも、
馬鹿にされてもいいから、カントに沿ってみる。
哲学は、哲学する、という動詞にほかならない。
それも、カントが教えてくれた。
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- 2016年03月24日 21:31 |
- 神
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いきなり、カントに喧嘩を仕掛ける。
そんな怖いもの知らずが、哲学に疎い者の特権なら、
特権を使わない手はないだろう。
カントに勝てるわけがないが、
自由とは、感情に抗うことである。
それは、カントが教えてくれた。
カントは、嘘を極端に嫌った。
完結したカントの威で、自らを誇るよりも、
馬鹿を承知でカントに逆らう、僕の疑問は正直だ。
それも、カントが教えてくれた。
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- 2016年03月21日 19:37 |
- 神
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カントは『純粋理性批判』で、
論理的な語法では、神の存在は証明できない、と考えた。
つまり、証明なんてしなくてもいい、
そう言っているに等しい。
そして、僕も、その通りだと思う。
中世以来の、
目的論的証明、存在論的証明、宇宙論的証明、
それらは、論理による証明を試みるが、
論理的な語法で証明できるとする、
その前提が誤っているとした。
旧来の証明は、それぞれ証明のしかたが違うだけで、
対立するわけではない。
僕なら、4つめの証明としてつけ加えたくなるが、
でも、カントは、ことごとく否定した。
それが、善く生きるということなのだろう。
カントは、人が善く生きるために、
神が必要なのは当たりまえ、とした。
カントには、存在証明の前から、
すでに否定しようもない神がいるのが窺(うかが)える。
神が実在しなくては、カントが困る。
神を要請する前に、人を要請しているが、
この世界には、人も実在しなくてはならないのだろう。
地球から人がいなくなれば、
誰も神を要請しなくなる。
では、地球には、人が必要なのか。
それは、当たりまえのことなのか。
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- 2016年03月21日 19:34 |
- 神
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すでに、多くの人が、
僕と同じようなことを思いついていると思う。
僕が説明できるようなことくらいは。
それは、重力が逆二乗則に従って働くことの説明を、
今さら、僕がするようなもので、
僕以外の誰にとっても意味はない。
でも、僕にとって意味を持つものごとは、
僕の経験に基づいて、僕が考えて、
僕が説明する努力と、別のことではあり得ない。
だからこそ、
僕以外の誰にとっても意味はない、
と言えるわけだ。

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- 2016年03月21日 14:27 |
- 神
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物理的な、客観的な時間は、
エントロピーの不可逆的な増大、
と説明されることが多い。
時間とともにエントロピーが増大する。
エントロピーの増大が時間である。
主観的な時間は、全身でその増大に、
逆らい続ける抵抗感である。
では、時間とともにエントロピーが縮小する、
エントロピーの縮小が時間である、
そう定義する時間も成立させることができる。
それを成り立たせない理由は、
僕たちがそう思えないから、それだけだ。
なぜ、時間は過去から未来へ向かうのか。
それは、実は、質問になっていない。
過去と未来は、すでに時間の後先にある。
問い直すなら、なぜ、前は後の前で、
なぜ、後は前の後なのか。
なぜ、前は前なのか、なぜ、後は後なのか。
なぜ、前後があるのか。
例えば、原因と結果、この思考のパターンは、
僕たちの主観的な時間が、
過去から未来に向かっていることが前提になる。
結果から原因に向かう思考を持つ者なら、
時間を逆に進ませようとするだろう。
原因も結果も考えない者には、
主観的な時間は流れない。
ダンゴムシには、1億年も1秒も、
長くもないし、短くもない。
長短という時間を、時間に帰すような愚を犯さない。
ダンゴムシには、主観的には、過去も未来もなく、
だから、現在と正対し続けることができる。
僕たちは、現在を不在にした代わりに、
過去と未来を手に入れて、
そして、双方向の時間の流れを失った。
つまり、時間の向きとは、
僕たちの、という所有格である。

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- 2016年03月19日 12:21 |
- 時間
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いくつかの季節が過ぎて、ある夜のこと、
彼女は、彼女よりも年下の少女たちが、
マッチの炎に照らされて、
暗闇に浮かぶのを見た。
何人かの少女たちが、
彼女を真似て、マッチを売り始めたらしい。
少女たちが路地裏に立てば、
すぐさま何本かのマッチが燃えかすになった。
彼女のマッチは、次第に売れなくなった。
しかし、ある日、箱の中のマッチを、
ぜんぶ買うという客が現れた。
客が何を買おうとしているのかは分かっていた。
彼女は、申し出を断り、
残っていたマッチに火を灯し始めた。
暗闇に彼女の顔が浮かび、
やがてまた闇に戻った。
マッチを売るのなら、
少女でなければならない。
マッチ売りは、マッチが燃えている間の、
儚いひと時でなければならない。
最後のマッチが燃え尽きたとき、
彼女は、もう大人の顔をしているだろう。
見上げた空に、星が流れる。

『君想ふ百夜の幸福』/池永康晟
2014、芸術新聞社
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- 2016年03月19日 12:17 |
- 未分類
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反時計回りの歯車と、
時計回りの歯車の、
接点が軋(きし)んでいる。
過去からの流れと、
未来からの流れが、
ぶつかって波頭が立つ。
過去からの世界と、
未来からの世界が、
互いをすり抜ける。
過去と未来が出会って、
現在が現れる。
何を思い浮かべても、
僕の妄想でしかないけれど。
プラトンは、惑星の運行が螺旋(ねじ)を巻き、
時間を進めると考えた。
そうだとしても、そうでなくても、
なんて素敵な発想だろう。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年03月18日 12:21 |
- 時間
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