最後に、個性とは何か、
その定義を求めてみる。
それは、個性について、
没個性的に考えてみるということか。
没個性的に考えることなど、
はたして人にできるのか。
そんなことを思う僕の個性が、
無理だからやめろと言っている。
何が集まって、個性と呼ぶか。
それは、普通には、人が集まっている。
~が巧い人、~な性格の人、~ができない人、
~な人から帰納する。
河原の石にも個性を認めるが、
それは、擬人化っぽい用法にしておこう。
個性に着目するのも、
認めるのも、認めないのも人だろう。
何が分かれて、個性と呼ぶか。
それは、性質の違いによって分けられる。
では、個性とは、端的に、
他人と違うことである。
平均的な性質との差異から演繹して、
~が速い、~が多い、~が悪い、
それらを個性と呼んでいる。
ここまでを定義とする。
個性とは、他人と違うこと。
当りまえすぎて、拍子抜けするけれど。
実際には、定義は終わらない。
定義された、個性は、
再定義に駆り立てられて、
良い個性と、悪い個性に分けられる。
良い個性と、悪い個性。
それらは、すでに個性で縁取られた、
どちらも個性の枠組みの内側なのに、
悪い個性は、個性とは認めない。
誰が、良い悪いを決めるのか。
それは、みんな、としか言いようがない。
せっかく他人と違っている個性なのに、
なぜ、みんなのふるいにかけるのか。
個性は尊重されるべきだが、
社会に優先するわけではない。
協調性に反しない限りで、
個人の個性が認められる。
逆からいえば、
協調性のない個性は、
反社会的な悪い個性である。
そんなのは個性とは呼ばれない。
個性を伸ばす、個性を尊重する、
そんなフレーズで語られる個性とは、
他人に承認されるような優れた性質。
つまり、「能力」のことである。
能力を伸ばす、能力を尊重する。
最初からそう言ってもらうほうが、
僕には分かりやすかった。
真に受けてはいけない。
他人と違うことが、
他人から無批判に尊重されるなんてことは。
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- 2016年05月26日 13:47 |
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純朴に考えて、
―― 純朴にしか考えられないくせに、
何を気取っているのだか。――
文章を読むときは、
他人の文章を読むことがそのほとんどだから、
読むことと、他人の文章は、
ほとんど同義になってくる。
他人が書いたものを読むのがデフォだから、
自分が書いたものを読むときも、
同様に読むのがデフォになる。
僕は、それ以外の読み方を知らないし、
ブログなどというプラットフォームに乗せるのなら、
メタに出て、読めるように修正しないと、
自分でも何を書いているのか分からない。
読み返せば、夜中に書いたラブレターのように、
自分が書いたことさえ認める気になれないが。
こんなことを書くつもりが、
あったのか、なかったのか、
プラットフォームも、ラブレターも、
書いているうちに、書きながら、
成り行きで浮かんできた単語であり、
それでも、読み手が違和なく読めるのなら、
書き手と読み手には、共有している他者がいる。
文章を書くことも、読むことも、
その他者に思いを寄せることと、
別のことではあり得ない。
―― そんなこと、思ってもなかったくせに。――
文章は、その他者によって書かれ、
その他者によって読まれる。
―― そんなこと、思ってもなかったくせに。――
書き始めれば、書かれた文章に導かれて、
魔法のように紡ぎ出されるのが文章だと思う。
夜中に書いたラブレターが、
自分が書いたことさえ認める気になれないのは、
朝になれば魔法が解けるから。
―― そんなこと、思ってもなかったくせに、
何をきれいにまとめようとしているのだか。――
文章は、僕が思ってもみない嘘に、
自らを投企しながら、
それを結びにしようとしている。
―― そのとおり。
嘘について語るときは、
僕たちは正直にならなければならない。――
この文章は、誰が書いたのだろう。
―― この文章は、誰が書いたのだろう、
と書いた者は誰だろう。――
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- 2016年05月24日 21:44 |
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ラカンの『エクリ』の序文。
言語において、
私たちのメッセージは<他者>から私たち宛てに到来する。
差出人と受取人が入れ替わって。
書く、ということは、
僕が、誰かに宛てて発信したメッセージを、
まず僕が読むけれど、
それは、他者からのメッセージとして読むことになる。
個性を伸ばす、個性を尊重する、
そんなもの謂いをする人は、おそらく、
何を言っているのかが、
自分でも分かっていない。
と書いたなら、
僕が、誰かに宛てて発信しようとしているメッセージを、
書きながらも、書いた直後にも、まず僕が読む。
他の誰かから、僕に送られたメッセージとして。
文章は、本来、他人のフレーズであり、
僕の文章は、多くの他人のフレーズの中から、
僕が選んで、加工したものに過ぎない。
僕の知らないフレーズが、
僕に思い浮かぶわけがないから。
僕は、日本語のテキストが堆積した、
分厚い層にアクセスして、
他人の文章を借りてくる。
よくあるフレーズだから、
安心して使っているだけで、
言葉に意味など持たせてはいない。
そして、このセンテンスが、
僕に宛てられたメッセージとして僕に届けば、
僕の立ち位置は狭くなる。
よくあるフレーズによらなければ、
僕は文章を書けないから。
文章を書く、ということは、
他人の文章によって書くことからは出られない。
よくあるフレーズによらなければ、
文章は、僕にも、他人にも、読めたものではない。
もしも、僕の文章に個性や独自性があるのなら、
みんなと同じ方法で、
みんなと同じことをして、
みんなと同じにならなかったことにある。
それは、世の中から承認されることは少ないが、
しかし、承認されないから、承認を求めている。
みんなと同じなら、承認はいらない。
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- 2016年05月23日 12:04 |
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個性を伸ばす、個性を尊重する、
そんなもの謂いをする人は、おそらく、
何を言っているのかが、
自分でも分かっていない。
よくあるフレーズだから、
安心して使っているだけで、
言葉に意味など持たせてはいない。
言葉のほとんどはそんなものだ。
言葉は意味を置き去りにされている。
伸ばすべき個性を伸ばす、
尊重できる個性を尊重する、
そのくらいの意味でしかなく、
それは、言葉の無意味な繰り返しである。
個性とか、独自性とか、
単純にいいことっぽく捉えられているが、
実は、そんなにお気楽なものではない。
個性や独自性を備えれば、
当りまえだが、みんなと同じではいられない、
そんな苛立ちや疎外感と引き換えである。
面倒くさくて、不幸を見据えて、
屈託することと切り離せない。
みんなと同じことをしているときに、
不意に現れて、自分を困惑させるもの。
それを身をもって知っている人が、
個性や独自性を備えている。
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- 2016年05月21日 12:04 |
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自分が特別なのは、
当然の特別さで、絶対の特別さで、
この世界では、なぜか、
自分だけが特別な在り方をしている。
僕の特別さと比べれば、
僕には、他人が、電信柱や、
河原の石ころと同じに見えてくる。
などと書いたなら、
それでも、しかし、などの逆接でつないで、
大急ぎで、他人は石ころと同じではないと、
取り繕わなければならないが、
でも、そんなのはもういい、分かっている。
自分がさほど特別ではないことも、
もちろん分かっている。
他人を思いやる、
情けは人の為ならず、
そんな説教も、今は勘弁してほしい。
慣用句やことわざがあることを、
なぜ正しさの根拠にしているのかが、
僕にはまったく分からないけれど、
さておき、意味くらいは知っている。
それぞれの絶対的な特別さのほかに、
自分を含め、各自の個性や独自性、
そんなものがあるとして、
それは、普通には、
会話や文章表現によって、
量ることになるのだろう。
ただし、言葉が通じれば。
会話は思いのほか通じていない。
目に映るものについてなら、
通じて当りまえだから、
そんなものはどうでもいい。
言葉が通じることは、
具体的なものごとではなく、
その背後に広がる抽象的な空間が担保する。
その空間へのアクセスは、
分かる人には分かる、
分からない人には分からない。
分からない人には、おそらく、
分からないことにも気づけない。
言葉は目に映るものごとを通り過ぎ、
目に映らない場所を行き来する。
個性や独自性が生まれる場所は、
きっと、そこなのだろう。
では、そんな空間を備えていないことも、
また個性や独自性といえるのだろうか。
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- 2016年05月20日 21:14 |
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例えば、
「個性や、独自性が輝く世の中になればいい」
そんなふうに書いてみよう。
僕もそう思うし、
きっと、誰もがそう思う。
間違いはないし、
たぶん、誰からも反論されることはない。
反論はないけれど、
意地悪く言えば、その文章には、
個性や、独自性がまったくない。
では、自分には、個性も、
独自性もないけれど、
個性や、独自性のある人が、
輝く世の中になればいい、という意味か。
だったら、個性や、
独自性に乏しい書き手のおかげで、
個性や、独自性がある人の輝きは増すだろう。
そこまで見通して、捨て石になれるのなら、
書き手は、相当の個性や、
独自性を備えている。
その論旨は、かっこいい。
しかし、もしも端的に、
自らの個性や、独自性を、
輝かせるために書いているのなら、
僕には、行き場のない気持ちが残る。
間違いはないけれど、
絶望的に分かり合えないだろう。
結論を同じくするゆえに。
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- 2016年05月16日 18:32 |
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個性とか、独自性とか、
手放しで肯定されるような言葉だから、
相田みつをのポエムのように、
ゆるゆるの文章が多数になるのだろう。
緩くて、きれいで、優しくて、
意味のない言葉を望んでいる者が、
この国の多数を占めていて、
それが世の中の価値の基準を作っている。
書き手は、読み手に寄せて、
ポエムっぽく書き進め、
ゆるゆるで、ふわふわに結ばないと、
落ちがついた気がしない。
個性とか、独自性とか、
自分で考えること、自分で選ぶことを、
真に受けている者は、
多数には分かってもらえない。
真に受けることなく、
個性や独自性を大切にする。
その加減が分かっていない文章は、
目障りなだけである。
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- 2016年05月15日 19:58 |
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