気が狂っていても構わないけれど、
妙なモードで外を歩かれるのは困る。
街のほとんどの場所は遊び場ではないが、
何人かの集まりで、心理的な抵抗も感じずに、
遊び場に変えてしまうのは困る。
僕は、ポケモンGOをしていないから、
街にモンスターが現れることはない。
でも、モンスターを探している人が街に現れる。
モンスターが見えない僕には、
奇妙な出来事に映るのは当然だろう。
去年の夏に、街の中で、
モンスターを捕獲する人がいたなら、
狂人の扱いをされなかっただろうか。
では、今年の夏に、街の中で、
モンスターを捕獲する人は、
狂わされているに違いない。
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- 2016年07月31日 20:36 |
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ゲームは、どれもそんなもので、
ゲーム機とプレイヤーは、
いつだって分断されている。
ゲームが虚構、というのは、
たぶん、そういう意味である。
プレイヤーは、現実を見てはいけない。
ゲーム機は、何らの意思を持たず、
プレイヤーに寄り添うことはないから、
ゲームの成立には、常に、
プレイヤーの一方的な思い込みが求められる。
あらゆるゲームは、
プレイヤーの誤謬によって成り立っている。
プレイヤーは、常に、
間違いを犯している。
ゲーム機が間違えるときには、
ゲームは成立しないが、
プレイヤーが間違えないときにも、
また、ゲームは成立しない。
つまり、ゲーム機が正常で、
プレイヤーが異常なときにだけ、
ゲームが成り立つ。
それが、僕たちとゲーム機の関係だ。
ほかのどんな組み合わせでも、
ゲームは成立しない。
ゲームを始める、ということは、
自らを間違いのモードに移すことであり、
ゲームしている、ということは、
そのモードに没入していることを、
忘れてしまうことである。
端的に言って、プレイヤーとは、
気が狂った人のことである。
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- 2016年07月30日 21:10 |
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ポケモンが現れるのはどこか。
もちろんスマホの中に現れる。
捕まえたポケモンはどこに行くのか。
もちろんスマホの中に行く。
ポケモンが増えていくのは、
もちろんスマホの中で、
プレイヤーが現実に所有する、
何かが増えるわけではない。
ゲームの成果をレベルと呼ぶのなら、
レベルが上がるのはスマホのレベルで、
プレイヤーのレベルが上がるわけではない。
レベルは、プレイヤーには帰属しない。
ステージと呼ぶのなら、
次のテスージに行くのはスマホで、
プレイヤーはどこにも行けない。
それらを何と呼んでもいいが、
プレイヤーとは関係のないものである。
複数のプレイヤーで、1つのスマホを、
共有することを思えば分かりやすい。
ポケモンも、レベルも、何でも、
すべてはスマホのものであり、
プレイヤーとは関係のないものである。
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- 2016年07月30日 12:31 |
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僕たちは、ずっと前から、
こんな世の中だったことを知っていて、
改めて、見せつけられただけ。
手の中の、小さな端末を通して、
世界を投影していることを、
認めたくなかっただけ。
あからさまに、
みんなと同じことをしている人たちを、
見たくなかっただけ。
その人たちが、ことあるごとに、
個性や、自分らしさを語ることに、
反吐が出そうになっただけ。
ポケモンGOとは何だったのか、
このブームを後の視点から振り返る日が、
どうか、早く来てほしい。
すぐにでも。
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- 2016年07月29日 12:48 |
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もし都内で、ポケモンGOに禁止を言う候補者がいたら、すぐ投票しますね。
そう思うのなら、それでいいと思う。
舛添要一の最大の問題は、
政治家として無能だったことにある。
彼が仕事をしていれば、僕なら、
人格的な批判は帳消しにしてもいい。
都内でポケモンGOを禁止する候補者は、
とりあえず、1つは仕事をしてくれる。
都市間外交、なんて得体の知れないものではなくて、
ゲームを禁止する場所を示すくらいは容易だろう。
全面的な禁止はファッショだと思うけれど。
僕なら、たかがポケモンGOごときで、
知事を選んだりはしないが。
現実は面白いことに満ち溢れているわけです。
ポケモンGOが流行しても、しなくても、
現実の面白いことは、増えも、減りもしない。
満ち溢れている、というのなら、
去年の夏も、今年の夏も、
変わらずに、街に溢れている。
では、去年の夏に、やくみつるは、
道端の植え込みにいる虫に興味を示したのだろうか。
親はもっと楽しいものを子供に提供する義務があります。
楽しいものなら、義務にしなくても、
親は子供に提供する。
彼が言う満ち溢れている楽しいものは、
楽しくないから義務になる。
義務という言葉に、彼の欺瞞が透けている。
なによりも、虫とゲームを、
二分法に仕立てる発想に無理がある。
何の関連があるのだろう。
虫は虫で、彼が好きなら興味を持てばいいし、
ゲームはゲームで、彼が嫌いならしなければいい。
自分の都合で何でもリンクさせたら、
アホな子にしか育たないですよ。
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- 2016年07月28日 21:34 |
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やくみつるは、さておく。
そう思うのなら、それはそれで彼の意見だ。
しかし、水道橋博士の反論は、
残念ながら、反論になっていない。
まともな大人なら、反論とみなさない。
ポケモンGOをきっかけに神社に行くようなったら、
その歴史を調べるようになる、
ふつうに考えて、そんなやつはいない。
水道橋博士は、極めて稀な例外を挙げて、
すべてがそうではない、と反論する。
それは、カラスは黒い、という命題に対して、
白いカラスを挙げるようなものだ。
すべてのカラスは黒い、という命題に作り変えて、
極めて稀な例外を挙げて反論としている。
その発想は、なんとも子どもっぽい。
コメンテーターとしてのポジショントーク、
などと、個人の属性を貶めて反論とするのは、
相手を辟易させて、黙らせるには有効だが、
もちろん反論とは呼べない。
そんなのは、やくみつるの発言とは何の関係もない。
水道橋博士も、メディアも、
それくらいのことは、気づいてほしい。
そんなことくらいは踏まえていないと、
議論じたいが成り立たない。
僕は、侮蔑なんてしないけれど、
こんなのを議論と思って打ち興じたら、
アホな子にしか育たないですよ。
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- 2016年07月28日 18:31 |
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やくみつる ――
「もし都内で、ポケモンGOに禁止を言う候補者がいたら、すぐ投票しますね。
あんなの愚かでしかないです。
こんなことに打ち興じている人を、心の底から侮蔑します。
現実は面白いことに満ち溢れているわけです。
道端の植え込みだって、そんな中にいる虫にだって興味を示せばいいものを、
そこを見ながら現実的じゃないものを探す。
親はもっと楽しいものを子供に提供する義務があります。
親も一緒になって打ち興じたら、アホな子にしか育たないですよ」
水道橋博士 ――
「そんなことはない。
ポケモンGOをきっかけに神社に行くようなったら、
その歴史を調べるようになるとか。大人だってそうです。
そうやって決めつけて、
コメンテーターとしてポジショントークしている人を、
ぼくは心の底から侮蔑しますよ」
やくみつるは、高校生くらいの意見、
水道橋博士は、中学生くらいの反論か。
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- 2016年07月28日 12:54 |
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一、私は洗礼を受けたことを否認する。
二、私はキリストの名前の上に糞をたれる。
三、私は神の十字架の上で手淫をする
(しかし、ピオ十二世よ、手淫はかつて私の習慣になかったし、
こんご私の習慣となることもけっしてあるまい。
おそらく貴殿は私のことを理解しはじめているはずだ)。
四、ゴルゴダで磔刑に処せられたのは、私なのだ(イエス=キリストではない)、
そして私が磔刑に処せられたのは、
立ち上って神とそのキリストとに抗議したためなのだ。
なぜなら私は一箇の人間であり、
そして神とそのキリストとは観念にすぎないからだ。
しかもその観念たるや、人間の手の汚らわしい印しがついている。
あれらの観念は私にとっては、かつて存在したことがない。
―― “Adredde au Pape、ローマ教皇への上奏文”/アントナン・アルトー
しかし、アントナン・アルトーよ、
貴殿の洗礼の否認も、
貴殿がキリストの名の上にたれる糞も、
貴殿が好まない手淫も、
貴殿が処せられた磔刑も、
僕は、まったく意に介さない。
僕も一箇の人間であり、
そして、神とそのキリストは、
観念に過ぎないことに同意する。
しかし、その観念には、
人間の手の清らかな印しがついている。
それは、僕には、かつて存在したことがない。
貴殿の神は、美しいのか?
神は、貴殿の糞便や精液や血液に、
汚されて困るほどに、
きれいだと思っているのか?
神は、貴殿の排泄物より汚いものを、
備えているとは思えないか?
貴殿は、甘ったるい夢を見ているのか?
―― 『神経の秤・冥府の臍』/アントナン・アルトー 著、清水徹 訳、
―― 1977、現代思潮社
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- 2016年07月24日 22:01 |
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何を見ているのか、何が見えているのか、
そんなことを考えていて、
たぶん、ずっと昔から、
モンスターを見ていた人たちに気づく。
ポケモンを集めている人たちを、
怒鳴りつけるオヤジがいる。
「こらぁ~っ、騒ぐなっ。
河童が隠れてしまったではないかっ」
ポケモンを見つけた人に、
問いかけるジジイがいる。
「おや、そうですか、あなたにも見えますか。
昭和の中頃の、地縛霊ですかな」
日曜日の昼間から女装をして、
自撮りで写す人がいる。
熱中症で運ばれて、
点滴を打っていた人がいる。
自転車で遠出をして、
戻ってこれない人がいる。
地面に落ちている蝉を、
踏みつけてしまった人がいる。
いずこも同じ夕暮れに、
人々の影が長く伸びる。
僕の影も重なって、
並んで歩く、すれ違う。
きっと、僕たちは、そんな影くらいにしか、
同じ景色を見ることができない。
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- 2016年07月24日 21:56 |
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あこがれや、欲望や、言いのがれや、
恋人や、友達や、別れや、
台風や、裏切りや、唇や、できごころや、
ワイセツや、ぼろもうけの罠や、
―― 『息子』、奥田民生 作詞作曲、1995、Sony Records
安心や、妊娠や、ふたまたや、小豆相場や、
あきらめや、女装や、哲学や、宗教や。
哲学や宗教は、そんなものと一緒にするな、って、
そして、哲学や宗教は、お互いに一緒にするな、って、
言うのだろう。
しかし、例えば、宗教に真理があるのなら、
真理は、恋人やわいせつやあきらめを貫き通す。
例えば、宗教から真理を延ばして恋愛を射抜くのも、
恋愛からの延長で宗教に辿り着くのも、
同じと思っている。
きっと、どこからでも届く。
女装からでさえ。
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- 2016年07月23日 20:28 |
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