すべての音楽の中に、
いくつかの、僕の好きな音楽がある。
すべての、とか、いくつかの、とかは、
量を表現している。
すべての音楽も、僕の好きな音楽も、
量化表現されるものだ。
すべて、といっても、
たいした量ではない。
すべての音楽、とは、
僕が知る限りのすべての音楽であり、
僕が知らない音楽は、
僕には、存在しないのと同じである。
音楽は、存在するから、
僕に知られているのではなく、
僕に知られているから、
存在することになる。

大量の音楽を聴けば、
大量の分節を持つ。
その中から選ばれた音楽は、
とびきりの、好き、になるはずだ。
その一方で、思うのは、
好きになれない音楽の多さ。
もしも、僕が知っている音楽が、
100曲だけだったら、
僕は、そのすべての音楽を、
好きになれたのかもしれない。
好き、というのは、
きっと、いくつかの、
好きになれたのかもしれないものごとを、
嫌うことである。
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- 2016年09月27日 23:08 |
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好き、とは、
分節と生成の傾向性である。
分節化されなければ、
好きも嫌いもない。
分節の後、やがて生成が行われる。
切り分けられた後は、
なんらかの類似性で、再び括られる。
しかし、僕の好きな音楽は、
いつまで経っても、分散したままで、
それぞれが結びつこうとしない。
好き、という括りでしか括れない。
重なり合う積集合の中は、
結局、好き、だけしか見つからない。
では、生成、って何だ?
好き嫌いという分節化の後で、
好き嫌い自体を変容させるのが、
生成ではないだろうか。
好きなものごと、とは、
自分の、好き、という判断基準を、
変えさせるものではないか。
僕の、ある基準によって、
好き嫌いに分けられるのではなく、
好き嫌いによって、
新たな基準が上書きされる。
かつての基準が、違った基準に置き換えられる。
好き、とは、誰かによって、
変えられた自分のことである。

僕の好きな音楽、とは、
定まったものではなく、
場当たり的な、つじつま合わせの、
フィクションに過ぎない。
どうやら、好き、とは、
僕の、好き、という基準に、
収まるようなものではないらしい。
僕が、好き、と呼べるようなものごとは、
僕は、たいして好きにはなれない。
僕の基準に収まらないものごとを、
僕は好きになるに違いない。
僕たちは、
今まで、好き、という意味を知らなかった、
そう思わせる人を、恋人に選ぶだろう。
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- 2016年09月26日 22:43 |
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平井堅とエグザイルが好き、
という人と、
平井堅と山崎まさよしが好き、
という人の、
平井堅の性質は異なる。
平井堅とエグザイルが好き、
それは、平井堅とエグザイルの和集合、
平井堅∪エグザイル、が好きということだが、
平井堅とエグザイルの共通部分、
平井堅∩エグザイル、を要素としている。

僕たちは、平井堅に含まれるエグザイル性、
それが好きで平井堅が好きになることも、
そこは聴かないふりをして、
別の、補って余りある、
平井堅性を好きになることもできる。
平井堅が好き、
それだけでは、よく分からない。
平井堅、エグザイル、西野カナ、湘南乃風、加藤ミリヤ、
例示して、次第に傾向が見えてくる。
好き嫌い、とは、
その人そのもの、
分節と生成の傾向性である。
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- 2016年09月24日 12:51 |
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