好き嫌いは、好き嫌い。
善悪にも、幸不幸にも、
どこにも着地させないで、
宙に浮かべるもの。
考えるくせのある人は、
それらを結ばない。
考えることは、もつれさせないこと。
考えることは、解(ほど)くこと。
感情は、自分のものとしか、
言いようがないけれど、
考えずにはいられないのは、
きっと他人の仕業だと思う。
多くの視点を持つことは、
どれだけたくさんの他人を、
自分の中に棲まわせているか、
それにかかっている。
他人が棲んでいなければ、
思考はできないし、おそらく、
考える必要性も感じない。
きっと、考えることの、
意味さえ違ってくるだろう。

https://jp.pinterest.com/hugogiralt/mini/
自由に考えるなんて、
考えない人の台詞だと思う。
自由なんて枕詞がつけられる思考は、
すべて思考停止だと思っている。
思考は、自分の中の他人に対する、
ぎりぎりの説得である。
そこに、自由を感じるのなら、
それは、自由な思考ではなく、
思考の不自由である。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月31日 22:40 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:8
好き嫌いと、
善悪や、幸せ不幸せは、
関係が切れている。

http://luiscezar.blogspot.jp/2011/11/mini-cooper-s-dnarally.html
自分の好きなものごとを善、
嫌いなものごとを悪として、
あるいは、幸せ不幸せとして、
善悪や幸不幸と共に考えることを、
僕は、自由な思考とは呼ばない。
感情が、判断に結びつくような、
そんな短絡を、
逆に、不自由と呼ぶ。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月30日 20:40 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
無関心を、考えられないこと、
考えたくないこと、
考え続けていられないこととすれば、
好きの反対は無関心になる。
好き嫌い、とは、
考え続けていられないものごとにも、
関心を持たせることである。
無関心にさせないことである。
考え続けることができるものごとなら、
もとより関心を持っている。
だから、好きの反対は無関心、でいい。
ずいぶん遠回りをしたけれど、
どうやら、それで、合っているらしい。

http://forums.kilometermagazine.com/
余計なことを、
つけ加えるなら、
僕は、美しいものごとが好きで、
醜いものごとが嫌いで、
それは、僕に限ったことではなく、
誰だってそうだと思うけれど。
美しいとか、醜いとかも、
うまく説明ができないことだが、
もしかしたら、好き嫌い、が先に来て、
後に、美醜が来るのかもしれない。
好きなものごとについての、
僕の言葉の行き止まりを、
おそらく、僕は、
美しい、と呼んでいる。
そして、反対に、
嫌いなものごとについてのそれを、
おそらく、僕は、
醜い、と呼んでいる。
美しい、とか、醜い、とかは、
問いが解けず、答を探せないこと。
言葉を手放すことへの同意である。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月28日 22:34 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:16
好きの反対は無関心、
のときもある。
好き、でなければ、嫌い、とか、
関心、がなければ、無関心、とか、
ふつうに考えて、僕たちには、
そんな極端な二分法に、
振り分けられないものが多すぎる。
どちらでもないことが多すぎる。

https://jp.pinterest.com/hugogiralt/mini/
知っているけれど、
考えられない、
考えたくない、
考え続けていられない。
それは、嫌いなものごとだけではなく、
好きなものごとについても当てはまる。
例えば、音楽について語るとき、
僕が心に思う音楽と、
僕の言葉による表現は、
どうしても一致する気がしなくなる。
世の中には、言い表せないものが、
いくらでもあって、
僕の中にも、言葉にならないものが、
いくらでもあるのだろう。
音楽は、言葉を要しないから、
音楽は、言葉の不自由さを跳び越えて、
身体に働きかけ、引き換えに、
言葉を不自由にさせるもの。
言葉は、音楽に無関心を装わなければならないが、
それでも、音楽は、語らずにはいられないもの。
考えることができないのに、
また続きを考えてしまうもの。
好き、とは、
想い起こさせることである。
考え続けていられないものごとにも、
関心を持たせることである。
思わず関心を持ってしまうような、
無関心でいられないものごとを、
無関心にさせないことである。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月28日 12:06 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
好きの反対は無関心、
のときもある。
ただし、好き、の反対は、
好きではないあれこれのすべてであり、
無関心は、好きではないありようの一つで、
その全部ではない。

http://arban-mag.com/artist_detail/331
例えば、醜悪な、凄惨な、
下劣な、加虐的なものごとは、
想像しただけで気分が悪くなる、
身体が受けつけない。
知っているけれど、
考えられない、
考えたくない、
考え続けていられない。
自分との関わりが、
見い出せなければ、
問題にはしたくない、
意識に上らせたくはない。
無関心でいられるものなら、
無関心でいたい。
例えば、狭量で、下品で、
横柄で、薄っぺらな人のことなど、
考えても仕方がない、
考えても、悪口しか浮かばない。
嫌い、とは、
想い起こさせることである。
考え続けていられないものごとにも、
関心を持たせることである。
関心など持ちたくもないような、
無関心でいたいものごとを、
無関心にさせないことである。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月27日 12:05 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
好きの反対は無関心。
バガボンのパパみたく、
両辺に「反対」を掛けると、
「好きの反対」の反対は「無関心の反対」になる。
「好きの反対」は、「無関心」だったから、
左辺に代入すると、
「無関心」の反対は「無関心の反対」になる。
「無関心の反対」を「関心」として、
右辺に代入すると、
「無関心」の反対は「関心」になる。
これでいいのだ。

https://fanart.tv/artist/8defddcb-85ab-4283-a1a8-68405fa98b6b/kojima-mayumi/
好きの反対は無関心。
両辺に「反対」を掛けると、
「好きの反対」の反対は「無関心の反対」になる。
ここまでは同じ。
「好きの反対」を、「嫌い」として、
左辺に代入すると、
「嫌い」の反対は「無関心の反対」になる。
「無関心の反対」は「関心」だったから、
右辺に代入すると、
「嫌い」の反対は「関心」になる。
好きの反対は無関心で、
嫌いの反対は関心か。
それとも、好き、の反対を、
嫌い、としたのが間違いか。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月24日 19:14 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
好きの反対は無関心、
逆は、無関心の反対は好き。
逆は、無理な気がするし、
裏も、対偶も壊れている。
間違いとは言わないけれど、
当然には正しくない。

http://www.joinalive.jp/2013/others/more.php?ct=s1&no=13
無関心、について考えることは、
語義矛盾が待ち受けている。
僕は、僕が関心を持たないことを、
思い浮かべることができないから。
僕の無関心は、厳密には、
例にも挙げられないものごとである。
厳格な意味での無関心は、
関心がない、ということではなく、
知らない、ということになりそうだ。
知らないことについて考えるなんて、
語義矛盾としか言いようがなく、
そこには、もとより関心も無関心もない。
だから、無関心とは、多少なりとも、
知っているものごとである。
関心を持ってもいいのに、
持たないものごとになる。
知っているけれど、考えない、
考えられない、考えたくない、考えなくてもいい、
考え続けていられない、
そんなものごとになる。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月24日 12:06 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
好きの反対は無関心、
何かが変だ。
何か仕掛けがあるような気がする。
きっと魔法がかけられている。
好きの反対は無関心、
そのフレーズは、
当然には正しくはないが、
ある意味ではとても正しい。
まず関心が持たれなければ、
好きも嫌いもない。
認知されなければ、
感情は生まれない。

http://www.billboard-japan.com/d_news/image/7924/1
とても当たりまえのことを、
言っているに過ぎないのに、
関心、という認知から、
好き、という感情に跳ばされる。
好き、に対する、嫌い、
関心、に対する、無関心、
それらが対立する軸を見失う。
そのあたりだろうか、
魔法の呪文が、
書き込まれているのは。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月23日 12:05 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
好きの反対は無関心、
では、嫌い、はどこに行った?
記述されないからといって、
嫌い、がなくなるわけではないだろう。

http://www.thenational.ae/arts-lifestyle/music/guitar-hero-the-perpetual-relevance-of-jimi-hendrix
好きの反対が無関心なら、
嫌いの反対も、もちろん、
無関心に決まっている。
そんなの、誰でも即答できる。
嫌い、を隠しただけの、
きれいごとのフレーズを、
素直に受け容れること、
それを何と呼ぶのかは知らないが、
僕は、それを無関心と呼ぶ。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月22日 20:09 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
好きの反対は無関心、
それは、よく聞くフレーズで、
なんだか、気持ちが悪いけれど、
世の中的には、
間違いではないのだろう。
間違いがないように思うのは、
そのフレーズに、さほど、
関心がないからにほかならないが、
さておき、好き、の反対は、
当たりまえには、嫌い、である。

http://okmusic.jp/#!/i/collections/527612
好きの反対は嫌い、
そんなのは当然だから、
誰もことさらに言うことはない。
当然ではないフレーズは、
当然でないから意味を持つ。
つまり、好きの反対は無関心、
それは当然には正しくない。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2016年10月22日 12:53 |
- 好き嫌い
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0