景色が、音を、
生み出していたのかもしれない。
景色が、音を、
消し去っていたのかもしれない。
確かなものは、池や岩で、
音は、不確かに成り下がる。
僕たちは、聞こえない音を聞き、
あるいは、聞こえる音が聞こえない。
僕たちに認識された空気の振動を、
僕たちは音と呼ぶが、
実際に空気が震えていたかどうかは、
僕たちにはどうでもいい。
実際の空気の振動は、
もはや確かめようがないことであり、
確かめても、僕たちが認識していなければ、
音とは呼べない振動になる。
僕が作り出した音でも、
それは、僕には、音としか言いようがなく、
僕が作り出した静寂でも、
それは、僕には、紛れもない閑(しずか)さになる。
事実はなく、解釈だけがあり、
音は、心許ない解釈の結果である。

http://www.mdn.co.jp/di/newstopics/30435/
「古い池です」、
「蛙が飛び込む水の音がします」、
芭蕉からの報告はそれだけである。
情報量は17音で、極めて少ない。
「閑(しずか)さです」、
「蝉の声が岩にしみ入ります」、
それ以外の報告は、
必ず誰かの虚構になる。
僕からの報告が多ければ多いほど、
必ず芭蕉のメッセージに嘘が混じる。
考えれば考えるほど、
虚偽のレポートになってしまう。
芭蕉が何を思っていたか、
なんてことは、僕には知る由(よし)もなく、
僕が、この句の意味を考えることは、
間違えることが運命づけられている。
考えるのなら、主語は僕にしなければならない。
以上の報告者は、僕である。
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- 2016年12月25日 19:41 |
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僕は、蝉時雨(せみしぐれ)の中を歩いている。
足元の岩に気を取られながら歩いていて、
蝉は視界には入らない。
せんせんせんせんせん…。
僕はその音を聞いていたのだろうか。
閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声
単調で鳴り止まない蝉の音は、
容易に忘れられて、閑(しずか)さが訪れる。
僕は、岩を見ながら歩いていたことで、
聞こえていたはずの蝉の音を、
どこかの岩に、置き去りにしてきたのかもしれない。
僕たちは、部屋にいるときに、
雨の音を聞き続けることができない。
窓から外を見たときに、
雨の音を聞いていたことに気づく。
降り止まなかった雨の音が戻ってくる。
ずっと聞こえていたのかもしれないし、
聞こえていなかったのかもしれない。
僕は、蝉が鳴く姿を、
注視していたわけではなく、
蝉が鳴く音を聞いていただけだから。
景色が、音を、
消し去っていたのかもしれない。
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- 2016年12月25日 12:14 |
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古池や蛙飛びこむ水の音、
その対句として、
閑さや岩にしみ入る蝉の声、
しずかさやいわにしみいるせみのこえ、
を考える。
「蛙」と「蝉」、
「池」と「岩」、
「音」と「閑(しずか)さ」、
それぞれが対になり、
同じことを言いながら、
まるで逆の意味になる。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/sazaesan/sazaesan_cast.html
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- 2016年12月24日 12:04 |
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僕が歩いていて、
古池に行き当たる。
僕は池を見て、蛙が飛び込む音を聞く。
ぽちゃん…。
僕はその音を聞いていたのだろうか。
古池や蛙飛びこむ水の音
僕たちは、蛙が池に跳び込んだときの、
音を知っている。
人それぞれに違っていたとしても、
それが、どんな音なのかは、
それぞれに想い起こすことができる。
僕が、さっき聞いた音は、
池を見ていたことによって、
想起された音の記憶かもしれない。
僕の耳は、僕の目が連れてきた音を、
聞いていたのかもしれない。
まるで違う音だったのかもしれないし、
音など聞かなかったのかもしれない。
僕は、蛙が池に飛び込むのを、
注視していたわけではなく、
微かな水音を聞いていただけだから。
景色が、音を、
生み出していたのかもしれない。
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- 2016年12月24日 12:04 |
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松尾芭蕉が何を思っていたか、
なんてのは、僕には関係がないから、
主語は僕になる。
考えるのは僕であり、芭蕉ではない。
芭蕉の心情を考察できる人がいるのなら、
芭蕉を主語にすればいい。
まずは、
古池や蛙飛びこむ水の音、
ふるいけやかわずとびこむみずのおと、
僕が、この句の意味を考える。

http://chibimaru.tv/about/chara/
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- 2016年12月23日 20:31 |
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日曜日から読み始めて、
木曜日の今日、読み終えた。
笑えるのは、プロットよりも、
散りばめられた小さなエピソード。
フィクションらしくて、結末らしいが、
フィクションだから、
フィクションらしくていいし、
結末は、結末らしくなければ、
結末にはならない。

ツ、イ、ラ、ク/姫野カオルコ 著、
2003、角川書店
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- 2016年12月22日 20:46 |
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日曜日から読み始めて、
水曜日の昨日は、
5分の4くらいまで。
僕には、この物語ほどには、
性欲が優位に立つ経験がないから、
分かったふりはしないけれど。
性欲をリアルとすれば、
僕には、性欲にくっつける何か、
つまり、フィクションを必要とする。
リアルに付加されたフィクションに、
スイートで、ロマンティックな夢を観る、
その交錯が、
僕の恋愛のリアルだと思う。
小説というフィクションの中で、
リアルを語ること、
それもまた、交錯した、
ロマンティシズムなのだから。
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- 2016年12月22日 12:04 |
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『ツ、イ、ラ、ク』というタイトル、
なんともそれらしい装丁と、
姫野カオルコというネームで、
まったく読む気がしなかったけれど。
日曜日から読み始めて、
火曜日の今日は、
5分の2くらいまで読んで後悔している。
なぜもっと早く読まなかったのだろう。
小学生、中学生の恋愛を、
そのプロトタイプとすれば、
恋愛は、性欲に言葉を乗っけたものになり、
身もふたもない気持ちになってくる。
改良を見込んでのプロトタイプだが、
言葉がまるで追いつかない。
どんな対象とも焦点が合わないでいると、
頭の中が騒がしい。
心の内を言語化させようとして、
手探りの作業が始められ、
探り当てた場所が、
中二病の在処(ありか)になる。
その見当違いの恥ずかしさを知るのは、
もっと大人になってからの仕事である。
―― だけど飛魚のアーチをくぐって
―― 宝島に着いた頃
―― あなたのお姫様は誰かと
―― 腰を振ってるわ
そんなキツい展開が、残り5分の3に、
待ち受けている気がする。
―― 強く儚い者たち/Cocco、作詞 こっこ、作曲 柴草玲、
―― 1997、SPEEDSTAR RECORDS
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- 2016年12月20日 12:21 |
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検索は、思考を阻害するが、
考えないから、間違えることはない。
例えば、ブログなら、
調べて、整理して、報告する、
そんなエントリを載せればいい。
先生に読んでもらえば、
たいへんよくできました、
なんてスタンプを押してくれるだろう。
世の中から承認されている言説を、
ネットから拾い上げて、
またネットに戻せば、
世の中に承認されるのは当然である。
高野文子が『黄色い本』で、
ジャック・チボーを引いていた。
ほ(褒)められたらいか(怒)れ、
よろこ(喜)んだらは(恥)じろ。
褒められるような文章なんて、
まったく書く意味がない。
世の中から承認されないから、
世の中の承認を取りつけようとする。
自分は、世の中から逸れていて、
認められないことくらい、
最初から承知している。
だから、考える。
だから、自分の言葉がある。

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- 2016年12月19日 19:02 |
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知識を得ることは、
考えることではなく、
逆に、知識の量が増えるにつれて、
僕たちは、思考が狭められる。
情報の量が少ないほうが、
抽象性は保たれる。
情報が顕在したときに、
潜在していた自由な思考が奪われる。
検索してきたばかりの、
半端な知識が詰め込まれた頭は、
まったく思考に適さない。
他人の考えを理解することに、
多くのリソースが使われるから、
思考ができるわけがない。
他人の言葉を仕入れることを、
思考と呼んでいるだけである。
検索は、思考を阻害する。
思考と呼ぶには、すでに遅く、
あるいは、まだ早すぎる。
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- 2016年12月18日 12:03 |
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