人が何かをするときは、
何かを言うときは、
未来から規定されていなければ、
実は、何もしていないし、
たいして、何も言っていない。
記憶にも残らないほどに。
一昨日の出来事で、
僕が憶えているのは、
未来につながることだけ。
抱えている仕事とか、
読みかけの小説とか、
明日も会う人たちのこと。
僕の未来に、
現れることのない人のためには、
僕は、言葉を探さない。
よくあるフレーズを、
使い回しているだけで、
考えて話しているわけではない。
そんなのは、僕の言葉でも、
誰の言葉でもなく、
僕でなくても構わないし、
誰が言っても構わないし、
僕の記憶にも残らず、
誰の記憶にも残らないだろう。
言葉を探すということは、きっと、
思いのほか、特別なことだ。
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- 2017年01月28日 12:04 |
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「愛する」は、サ行変格活用だが、
実は、五段活用っぽく活用する。

―― 2015/12/03、『ラカン 9/xx ―― 愛とは、持っていないものを与えることである』
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- 2017年01月28日 12:01 |
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僕に批判的なブログを紹介する。
>このブログのタイトルが『感謝感激雨霰』に変わった頃、
>このブログを見ているある人物が、その人自身のブログを「感謝とは…」みたいなタイトルで更新していた。
『感謝知らずな惑星』だろうか。
―― 2015/06/21、『感謝知らずな惑星』
彼女のブログ、『感謝感激雨霰』の「感謝」をパクって、
僕が、『感謝知らずな惑星』というタイトルをつけた、
という主張らしい。
そうかもしれない、認めよう。
>思い出話とか、過去のことをあたしが書くと、
>その人のブログは「現在の不在」とか何とかいうもったいぶったタイトルで更新されていた。
これは、『「現在の不在」仮説』。
―― 2016/03/14~03/19、『「現在の不在」仮説 (。-`ω´-)ンー 3/3』
彼女の、過去の思い出話をパクって、
僕が、『「現在の不在」仮説』というタイトルをつけた、
という主張らしい。
そうかもしれない、認めよう。
>宗教について書くと、
>その人のブログは「神の……」とか何とかいうタイトルで更新されていた。
これは、『神の無理ゲー』。
2016/03/21~04/11、『神の無理ゲー (。-`ω´-)ンー 5.c/5 ―― multiple endings』
彼女の、宗教の話をパクって、
僕が、「神」という語を含むタイトルをつけた、
という主張らしい。
そうかもしれない、認めよう。
>「人の文章をちゃんと読んでる(正確に読みこなしている)人って少ない」とあたしが書いたら、
>その人は、「誤読のナントカ」みたいなもったいぶったタイトルで書いていた。
これは、『誤読という出来事』。
―― 2015/12/15~12/18、『誤読という出来事 4/4』
彼女の、他人の文章が正確に読めない話をパクって、
僕が、「誤読」という語を含むタイトルをつけた、
という主張らしい。
そうかもしれない、認めよう。
>何このパクり方。
同意する。
何だろう、そのパクり方は。
そんなパクり方はあり得ない。
感謝、現在、神、誤読、
そんな不思議なパクり方をされたら、
誰だって不愉快になる。
>ていうか、そんなネタの拾い方しかできないんだったらブログなんかやんなよ~~~
1年数か月にわたって、
4回もパクられたら、
誰だって不愉快になる。
彼女は、昨年の夏から最近まで、
ブログを更新していないが、
その間、僕は、ネタが拾えなくて、
困っていたのかもしれない。
僕は、100回以上、困っていたことになる。
>そしてまた、そうやって更新したブログを、あたしに見せようとすんなっ!!
>お願いですから、もう来ないでください。
そうしよう。
ただし、感謝、過去や現在、
宗教や神、誤読、
僕が、それらの語を頻繁に使うことは、
許容してほしい。
記事の内容については触れていないが、
安心していい。
重なり合うことはないと思う。
彼女に病名をつけるのは簡単だから、
それは、問題にしない。
僕の文章を馬鹿にするのも、
読み手の自由だから構わない。
問題にしたいのは、
僕がパクったかどうか。
僕は、彼女の主張をすべて認めても、
パクったことにならないと思う。
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- 2017年01月26日 17:03 |
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ベンサムが設計した刑務所は、
ネットに似ている。
監視妄想に陥りやすい人に、
ブログは無理だと思う。

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- 2017年01月24日 21:24 |
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オヤジといえば、
ハゲで、メタボで、ダサくて、
小汚くて、くさい。
自己管理の失敗例を、
もれなく取り揃えている。
人は外見で判断できないが、それは、
人は外見で判断できることの逆説に過ぎない。
女子なら、誰もが、
人は外見で判断されることを知っている。
身体は、人格の表れである。
自分の身体は、
他人からの評価や価値の対象であり、
自己評価は、他人に依存する。
ヘア、メイク、ファッションとともに、
それらは、社会的な記号である。
駄洒落は、自分の心も身体も、
他人に価値を認めてもらうことが、
期待できないオヤジから発せられる。
社会的な記号性を失った疎外感、
それは、そのまま駄洒落となって表れ、
駄洒落は、社会的な記号性を失い、
他人から疎外されることになる。
しかし、その意識がないゆえに、
オヤジは駄洒落を言い続け、
そして、それゆえに、また、
駄洒落が疎外されることになる。
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- 2017年01月21日 22:03 |
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僕たちは不都合が起きたときに、
悪者を見つけたくなるけれど、
悪者は、駄洒落だろうか。
駄洒落とオヤジが、
共犯関係にあるとすれば、
主犯は駄洒落だろうか。
駄洒落を主犯に仕立てれば、
駄洒落を言うオヤジは、
かろうじて自分を守れる。
駄洒落を言うから、
つまらないのであって、
自分がつまらないわけではない。
自分が否定されることは、
誰だって耐えられない。
そうなる前に、替え玉を差し出してくる。
しかし、例えば、銃に置き換えるなら、
人を傷つけるのは、
トリガーを引いた人である。
銃でもなく、銃弾でもなく。
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- 2017年01月19日 17:12 |
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駄洒落を言うオヤジは、
何も考えていない。
おもしろくない上に、品位を損ない、
他人を困惑させて、嫌われる。
考えているなら、
そんな割に合わない行為はできない。
オヤジは疲れている。
ぐだぐだに疲弊して弱っている。
メタボで疲れやすい身体に、
心が共鳴して駄洒落が生まれる。
もっと気のきいたことを言いたいのに、
駄洒落くらいしか浮かばない。
疲弊した身体は、
疲弊した心を求める。
傷ついた心が、
傷ついた身体を求めるように。
口走ってしまった駄洒落は、
リストカットのように切ない。
駄洒落は、少しの後悔と、
自分の心がまだ死んでいないこと、
生きていてることの再確認である。
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- 2017年01月16日 19:23 |
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笑えないだけなら、
それは、おもしろくない、にしても、
つまらない、に振れることはない。
何ごともなく、通り過ぎればいい。
わざわざ嫌うことはない。
駄洒落は嫌われている、と思う。
僕でなくても、多くの人たちが、
駄洒落はつまらない、と言うだろう。
駄洒落には、すでに、
つまらないという意味が含まれている。
なのに、まだ駄洒落を言う人たちがいる。
もういい加減にしてほしいのに。
駄洒落を言うことも、それを聞くことも、
おもしろい、と感じる人たちが確かにいる。
その典型は、子供とかオヤジとか。
だから、構造は逆なのかもしれない。
子供はさておき、オヤジがつまらないから、
彼らが多用する駄洒落つまらなくなる。
オヤジが嫌いだから、
彼らがおもしろがっている駄洒落が、
訳もなく、不愉快になる。
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- 2017年01月13日 22:36 |
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駄洒落はおもしろいか、つまらないか、
そんなことを言い争っても、
たぶん、どうしようもない。
何がおもしろいかの判断の基準は、
世の中からは、とっくに失われている。
かつて、自明なものとして、
信じられてきた笑いのパターンは、
ことごとく破壊されている。
世の中のすべてにおいて、
絶対的におもしろいものはない。
正しい笑い、などというものはなく、
誰でも、いつでも、いつまでも、
笑い合える価値を保ち続けるものはない。
おもしろさも、つまらなさも、
一様に無価値であり、
おもしろさ、とは虚無的
―― ニヒルである。
世の中には、本来、
おもしろさなどないのだが、
僕たちは、形式的な対立を作り出して、
あえて対立させることで、
おもしろさを決めて行く。
僕たちは、失われた価値を埋め合わせるために、
その対立を信じて、おもしろいとか、
つまらないとか、言い合っている。
例えば、僕は、「笑点」を観ても、
笑う気にはなれないけれど、
笑わないことが、
僕のおもしろさを決定づける。
失われた価値なら、肯定はできない。
「笑点」を対立させて、否定することで、
やっと立ち位置が定まってくる。
おもしろさ、とは冷笑的
―― シニカルである。
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- 2017年01月13日 22:34 |
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