家族は、よく分からないけれど。
とりわけ、父と子については。
例えば、何でも言い合えるとか、
笑顔で、感謝し合えるとか。
そんな人たちが集まって、
家族をやっているのも、どうかと思う。
そんなに出来のいい人たちなら、
家族なんてしなくてもいいのに、
などと、出来の悪い僕なら、
やっかみながら思う。
何も言えなくなったとき、
笑えないし、感謝もしたくないとき。
現在進行形の時制で、
家族という集まりからの、
要請を充たす行為を選ぶことで、
それぞれの家族は説明される。
共有された、理想の家族のイメージから、
外れてしまったとき。
そこから、それぞれの家族が始まる、
などと、出来の悪い僕なら、
負け惜しみを言う。
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- 2017年02月26日 20:04 |
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怒っているときに、
考えごとが捗(はかど)るのは、
きっと、途切れることなく、
誰かの悪口が浮かぶから。
そのうち、本来の考えごとは、
悪口に取って代わられて、
考えごとは、いつの間にか、
悪口を考えることになっている。
考えごとは止まらない。
もう、悪口しか浮かばないのに。
悪口が浮かばなくなったとき、
考えごとは止まるけれど、
頭が悪口で埋め尽くされて、
もはや、もう、何も、
考えられなくなっている。
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- 2017年02月25日 18:02 |
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スピなら、考えるな、感じろ、という。
感じたことを、考えれば、
心の内を言語化させようとする、
つらい作業が待ち受ける。
心が請け負った作業を、
振り替えられた頭はつらい。
しかし、考えるな、感じろ、
そのフレーズに、違和を感じないのなら、
命じられるまでもなく、
もとより、頭は何も考えていない。
それは、考えることが苦手な人たちへの、
スピからの福音である。
考える、ということは、
考えろ、と命じられても、
考えることはできないし、
考えるな、と禁じられても、
考えることは止められない、
どうにもならないことだ。
同様に、感じる、ということも、
感じろ、と命じられても、
感じることはできないし、
感じるな、と禁じられても、
感じることは止められない、
どうしようもないことだ。
考えることも、感じることも、
できない人には、できないことで、
できないことをしようとしても、
もとより、しかたがないだろう。
意図してもできることではなく、
思いがけず、図らずも、
してしまうことだから。
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- 2017年02月24日 12:21 |
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読みかけの本のページをめくる。
人は、経験によって、
次の行為を選ぶ。
考える人は、いつまでも考え続ける。
優しい人は、きっと明日も優しい。
もしも、今日、僕が、
生真面目に、正直に書くのなら、
それは、今日の文章はもちろん、
すべての文章の生真面目さと、
正直さを説明してくれる。
自分が正しい人は、
執拗に他人を責め続け、
自分を棚に上げる人は、
いつまで経っても下ろさない。
嘘つきは、新しい嘘を思いつく。
それぞれに、
次のページをめくるように。

八日目の蟬/角田光代 著、
2007、中央公論新社
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- 2017年02月23日 12:12 |
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フーコーは、『監獄の誕生』で、
ベンサムが設計した刑務所、
「パノプティコン」について言及した。
それは、看守が囚人たちを、
一望できるように設計された監獄で、
看守は囚人をいつでも監視することができ、
囚人は、看守にいつ監視されているのかを、
知ることができない装置である。

囚人にとって、看守とは、
囚人による看守の視線の内面化である。
監視妄想に陥ることが、
囚人を囚人らしくさせるのであって、
看守は、囚人に一瞥も与えなくてもいい。
ベンサムが設計した刑務所は、
ネットに似ているが、
看守は、囚人のことなど、
関心を持たず、忘れていてもいい。
それが看守の所作だから。
囚人のブログには、
看守への悪口が綴られるだろう。
その刑期を終えるまで、
憑りつかれたように延々と。
その本質は、自分への悪口にほかならないが、
それが囚人の所作だから。
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- 2017年02月23日 12:08 |
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何も考えられない人も、
少しは考えてみた人も、
ある程度まで掘った人も、
岩盤にぶち当たるまで掘り下げた人も、
それぞれに結論を同じくする。
自分の正しさからは出られない。
ただし、掘り下げた人どうしなら、
自分と異なる考えを、
異なることだけを理由として、
間違えていると結論づけない。
お互いに、それぞれの正しさを、
身をもって知っている。
厄介なのは、スピや自己啓発で、
底が浅くて、にわか仕込みの知識ほど、
なぜか自信が持てるらしく、
僕は、何も分かっていなくて、
知識が足りない扱いを受ける。
そう感じているのなら仕方がない。
底が浅い人からは、底が浅いと、
狭量な人からは、狭量と、
鈍感な人からは、鈍感と、
馬鹿からは、馬鹿と、
他人の価値観を認めない人からは、
他人の価値観を認めないと評される。
少し考えただけでも、
矛盾に気づくと思うけれど、それでも、
自分の正しさからは出られない。
などと思う僕も、
自分の正しさからは出られない。
などと思う僕でさえ、
自分の正しさからは出られない。
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- 2017年02月22日 16:03 |
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誰だって、自分は正しい。
みんな、それぞれに正しい。
みんな、間違えようがなく、
正しくない自分でいることなど、
誰にもできない。
だから、正しくありたければ、
自分の正しさを感じていればいい。
感じることに満足しないで、
自分に多くを求めるから、
ありもしない間違いを探してしまう。
ありのままでいい、そのままでいい、
風に吹かれていればいい。
考えるから、間違える。
考えずに、感じていれば、
誰だって正しくなれる。
間違えたから、反省するのではなく、
反省と間違いは、僕たちに同時に現れる。
間違いは、反省と切り離せない。
小さく自分を省みるなら、
大きく間違えることはないだろう。
正しくありたいのなら、
考えずに、感じること。
それは、僕が知らなかっただけで、
そんなことは、ずっと前から、
大多数の人たちが実践していて、
そんなあたり前のことに、
今さら、立ち止まる僕がどうかしている。
そして、僕を絶望させるのは、
そんな、どうかしている僕でさえ、
僕の正しさに回収されること。
僕たちは、立ち止まることさえできない。
正しくない自分に、なることができない。
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- 2017年02月21日 12:53 |
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狭量な人ほど、自分を、
他人よりも心が広いと思っていて、
そう思い込める臆面のなさが、
その人の狭量さを示しているけれど、
もう、それ以上の心の広さを望めそうにないのは、
心が広いと思っているから。
感受性が鈍い人ほど、自分を、
他人よりも感受性が鋭いと思っていて、
それは、他人の感受性を感受する感受性が、
鈍っていることにほかならないけれど、
もう、それ以上の感受性を望めそうにないのは、
感受性が鋭いと思っているから。
それでも、誰だって、自分は正しい。
誰だって、正しくない自分にはなれないもの。
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- 2017年02月19日 12:05 |
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今まで、自明なものとして、
信じられてきたさまざまな価値は、
流行りの歌みたいに薄っぺらになって、
それでも、残り少ない価値として、
僕たちは、家族や親子の関係を共有している。
今も、自明なものとして。
正しいものなどなく、
価値があるものなどない、
それは、冷めた態度と共に、
分かったふりをしてごまかさない、
自分のあり方に満足しない、
熱い構えだと思う。
自分の中に取り込んだ、
よくある正しさで片づけてしまうのなら、
誰と出会っても、何を見ても、聞いても、
どんなにたくさんの本を読んでも、
誰とも出会うことはない。
知識が増えて、もの知りになっても、
自分の視点を固定させるだけだろう。
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- 2017年02月16日 21:24 |
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小説が好んで取り上げる主題に、
家族や、親子や、とりわけ母と子があるけれど。
乱暴に二分して、『晴天の迷いクジラ』では、
母と子は、置き換え可能なものとして、
対して、『八日目の蟬』では、
替えがきかないものとして描かれる。
あるいは、子の側からは、置き換えが可能で、
母の側からは、それが不可能なのかもしれない。
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- 2017年02月14日 12:51 |
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