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qinggengcai

流星ワゴン 2/3


        家族は、よく分からないけれど。
        とりわけ、父と子については。
例えば、何でも言い合えるとか、
笑顔で、感謝し合えるとか。
        そんな人たちが集まって、
        家族をやっているのも、どうかと思う。
そんなに出来のいい人たちなら、
家族なんてしなくてもいいのに、
        などと、出来の悪い僕なら、
        やっかみながら思う。

        何も言えなくなったとき、
        笑えないし、感謝もしたくないとき。
現在進行形の時制で、
家族という集まりからの、
        要請を充たす行為を選ぶことで、
        それぞれの家族は説明される。
共有された、理想の家族のイメージから、
外れてしまったとき。
        そこから、それぞれの家族が始まる、
        などと、出来の悪い僕なら、

        負け惜しみを言う。



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  1. 2017年02月26日 20:04 |
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流星ワゴン 1/x


        怒っているときに、
        考えごとが捗(はかど)るのは、
きっと、途切れることなく、
誰かの悪口が浮かぶから。

        そのうち、本来の考えごとは、
        悪口に取って代わられて、
考えごとは、いつの間にか、
悪口を考えることになっている。

        考えごとは止まらない。
        もう、悪口しか浮かばないのに。
悪口が浮かばなくなったとき、
考えごとは止まるけれど、
        頭が悪口で埋め尽くされて、
        もはや、もう、何も、

        考えられなくなっている。



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  1. 2017年02月25日 18:02 |
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感じるな、考えろ 4/4


スピなら、考えるな、感じろ、という。
感じたことを、考えれば、
心の内を言語化させようとする、
つらい作業が待ち受ける。
心が請け負った作業を、
振り替えられた頭はつらい。

しかし、考えるな、感じろ、
そのフレーズに、違和を感じないのなら、
命じられるまでもなく、
もとより、頭は何も考えていない。
それは、考えることが苦手な人たちへの、
スピからの福音である。

考える、ということは、
考えろ、と命じられても、
考えることはできないし、
考えるな、と禁じられても、
考えることは止められない、
どうにもならないことだ。

同様に、感じる、ということも、
感じろ、と命じられても、
感じることはできないし、
感じるな、と禁じられても、
感じることは止められない、
どうしようもないことだ。

考えることも、感じることも、
できない人には、できないことで、
できないことをしようとしても、
もとより、しかたがないだろう。
意図してもできることではなく、
思いがけず、図らずも、

してしまうことだから。



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  1. 2017年02月24日 12:21 |
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八日目の蟬 3/3


読みかけの本のページをめくる。
人は、経験によって、
次の行為を選ぶ。
考える人は、いつまでも考え続ける。
優しい人は、きっと明日も優しい。

もしも、今日、僕が、
生真面目に、正直に書くのなら、
それは、今日の文章はもちろん、
すべての文章の生真面目さと、
正直さを説明してくれる。

自分が正しい人は、
執拗に他人を責め続け、
自分を棚に上げる人は、
いつまで経っても下ろさない。
嘘つきは、新しい嘘を思いつく。

それぞれに、
次のページをめくるように。



    170223.jpg

    八日目の蟬/角田光代 著、
    2007、中央公論新社



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  1. 2017年02月23日 12:12 |
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踊らされる者へ、あるいは、パノプティコンについての補足


        フーコーは、『監獄の誕生』で、
        ベンサムが設計した刑務所、
        「パノプティコン」について言及した。
それは、看守が囚人たちを、
一望できるように設計された監獄で、
        看守は囚人をいつでも監視することができ、
        囚人は、看守にいつ監視されているのかを、
        知ることができない装置である。


    170124.png



囚人にとって、看守とは、
囚人による看守の視線の内面化である。
        監視妄想に陥ることが、
        囚人を囚人らしくさせるのであって、
        看守は、囚人に一瞥も与えなくてもいい。

ベンサムが設計した刑務所は、
ネットに似ているが、
        看守は、囚人のことなど、
        関心を持たず、忘れていてもいい。
        それが看守の所作だから。

囚人のブログには、
看守への悪口が綴られるだろう。
        その刑期を終えるまで、
        憑りつかれたように延々と。
        その本質は、自分への悪口にほかならないが、

        それが囚人の所作だから。



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  1. 2017年02月23日 12:08 |
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感じるな、考えろ 3/x


何も考えられない人も、
少しは考えてみた人も、
ある程度まで掘った人も、
岩盤にぶち当たるまで掘り下げた人も、
それぞれに結論を同じくする。
自分の正しさからは出られない。

ただし、掘り下げた人どうしなら、
自分と異なる考えを、
異なることだけを理由として、
間違えていると結論づけない。
お互いに、それぞれの正しさを、
身をもって知っている。

厄介なのは、スピや自己啓発で、
底が浅くて、にわか仕込みの知識ほど、
なぜか自信が持てるらしく、
僕は、何も分かっていなくて、
知識が足りない扱いを受ける。
そう感じているのなら仕方がない。

底が浅い人からは、底が浅いと、
狭量な人からは、狭量と、
鈍感な人からは、鈍感と、
馬鹿からは、馬鹿と、
他人の価値観を認めない人からは、
他人の価値観を認めないと評される。

少し考えただけでも、
矛盾に気づくと思うけれど、それでも、
自分の正しさからは出られない。
などと思う僕も、
自分の正しさからは出られない。
などと思う僕でさえ、

自分の正しさからは出られない。



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  1. 2017年02月22日 16:03 |
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感じるな、考えろ 2/x


        誰だって、自分は正しい。
        みんな、それぞれに正しい。
みんな、間違えようがなく、
正しくない自分でいることなど、
誰にもできない。

        だから、正しくありたければ、
        自分の正しさを感じていればいい。
感じることに満足しないで、
自分に多くを求めるから、
ありもしない間違いを探してしまう。

        ありのままでいい、そのままでいい、
        風に吹かれていればいい。
考えるから、間違える。
考えずに、感じていれば、
誰だって正しくなれる。

        間違えたから、反省するのではなく、
        反省と間違いは、僕たちに同時に現れる。
間違いは、反省と切り離せない。
小さく自分を省みるなら、
大きく間違えることはないだろう。

        正しくありたいのなら、
        考えずに、感じること。
それは、僕が知らなかっただけで、
そんなことは、ずっと前から、
大多数の人たちが実践していて、
        そんなあたり前のことに、
        今さら、立ち止まる僕がどうかしている。

そして、僕を絶望させるのは、
そんな、どうかしている僕でさえ、
僕の正しさに回収されること。

        僕たちは、立ち止まることさえできない。
        正しくない自分に、なることができない。



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  1. 2017年02月21日 12:53 |
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感じるな、考えろ 1/x


        狭量な人ほど、自分を、
        他人よりも心が広いと思っていて、
そう思い込める臆面のなさが、
その人の狭量さを示しているけれど、
        もう、それ以上の心の広さを望めそうにないのは、
        心が広いと思っているから。

感受性が鈍い人ほど、自分を、
他人よりも感受性が鋭いと思っていて、
        それは、他人の感受性を感受する感受性が、
        鈍っていることにほかならないけれど、
もう、それ以上の感受性を望めそうにないのは、
感受性が鋭いと思っているから。

        それでも、誰だって、自分は正しい。
        誰だって、正しくない自分にはなれないもの。



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  1. 2017年02月19日 12:05 |
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八日目の蟬 2/3


今まで、自明なものとして、
信じられてきたさまざまな価値は、
流行りの歌みたいに薄っぺらになって、
それでも、残り少ない価値として、
僕たちは、家族や親子の関係を共有している。
今も、自明なものとして。

正しいものなどなく、
価値があるものなどない、
それは、冷めた態度と共に、
分かったふりをしてごまかさない、
自分のあり方に満足しない、
熱い構えだと思う。

自分の中に取り込んだ、
よくある正しさで片づけてしまうのなら、
誰と出会っても、何を見ても、聞いても、
どんなにたくさんの本を読んでも、
誰とも出会うことはない。
知識が増えて、もの知りになっても、

自分の視点を固定させるだけだろう。



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  1. 2017年02月16日 21:24 |
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八日目の蟬 1/x


小説が好んで取り上げる主題に、
家族や、親子や、とりわけ母と子があるけれど。

        乱暴に二分して、『晴天の迷いクジラ』では、
        母と子は、置き換え可能なものとして、
対して、『八日目の蟬』では、
替えがきかないものとして描かれる。

        あるいは、子の側からは、置き換えが可能で、
        母の側からは、それが不可能なのかもしれない。



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  1. 2017年02月14日 12:51 |
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