ミニのホイールベースは、2035mm。
1959年から変わらない。
重心が低くて、まったくロールしないから、
交差点でも、六甲山でも、
くるくる曲がることができる。
曲がることが得意なクルマなら、
曲がることについては、
もう考えなくてもいい。
ミニは、うまく曲がれるから、
まっすぐ走るように仕向けられている。
常識的で、不幸な生い立ちもなく、
ありふれた、どこにでもいる、
取るに足らない、ふつうの僕なら、
少し足りない知識と、
うまく伝わらない表現で、
自分をどのように仕向けるのだろう。

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- 2017年05月29日 12:03 |
- 自分らしさ
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賢い人からは、
馬鹿な人の、馬鹿さ加減がよく解る。
馬鹿な人からは、
賢い人の、賢さがよく解らない。
馬鹿が単なる欠如だとすれば、
たぶん、それで合っている。
賢い人からは、馬鹿が測れる。
馬鹿な人からは、賢さが測れない。
馬鹿の物差しを越えている、
馬鹿の規矩が届かない、
だから、賢さが測れない、
そんな説明になるのだろう。
最初から、馬鹿を、
欠如と決めてかかればそうなる。
もしも、馬鹿が過剰だとしても、
逆の説明は成り立つが。
あるいは、馬鹿な人には、
賢さを失った代わりに、
得た何かがあるとしたなら。
賢い人が、賢さを得たことで、
失った何かがあるとしたなら。
そんな馬鹿な発想は、
賢い人には思いもつかないから、
あり得ないけれど。
確かに言えることは、
賢くても、馬鹿でも、
自分の物差しで測ることができるものは、
結局は、欠如だけになる。
僕たちは、そんなふうにしか測れない。
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- 2017年05月28日 20:26 |
- 自分らしさ
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馬鹿でも仕方がないけれど。
そして、僕が賢いとしても、
その僕の賢さは、
往々にして、賢い人たちからは、
馬鹿と呼ばれるような、
そんな賢さだと思うけれど。
仲間がいるから強くなれる、
例えば、こんなフレーズに、
イラっとくる人がいるだろうか。
仲間がいるから強くなれる、
説得もいらない、
正当化もいらない正しさがある。
しかし、このフレーズが絶望的なのは、
そんな意識が仲間外れを作り出すことに、
気づかせないからである。
そんなのが、最も僕をイラつかせる。
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- 2017年05月28日 12:03 |
- 自分らしさ
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肯定的なフレーズに隠されている、
半端ない否定。
寛容な見かけをした、
容赦ない不寛容。
そんなのが、最も僕を傷つける。
愛、だとか、優しさ、だとか、
誰からも反論されないような正しさ。
説得もいらない、
正当化もいらない正しさ。
そんなのが、最も僕を失望させる。
僕は、馬鹿なのだろうか。
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- 2017年05月27日 20:27 |
- 自分らしさ
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人それぞれ、とか、
みんな違って、とかいうけれど。
そんなふうに括ることができるのなら、
人はそれぞれに大差がない。
みんな、などと括られた以上は、
みんなは、みんな以上でも以下でもない。
人それぞれ、ってほどには、
人はそれぞれになれないし、
みんないい、ってほどには、
人はそれぞれに違えない。
人それぞれ、とか、
みんな違って、とか、
そんなフレーズに収めてしまうことで、
もはや、それぞれ、ではなく、
人は、みんなのメンバーに成り下がる。
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- 2017年05月27日 12:31 |
- 自分らしさ
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写経はいいぞ。
心が落ち着く。
実にいい気分だ。
写経を始めて、今日で4日め。
もう三日坊主とは言わせない。
やってみれば分かる。
どんな意味なのか、
わけが解らないし、
その行為にも意味がないから、
とても落ち着く。
どんな意味なのか、
わけが解って、
その行為にも意味があるのなら、
落ち着いてなんか、
いられるものか。
誰かが考えてくれた、
小難しい説明を、
ひたすらコピペしているのは、
実にいい気分だ。
心が平安に保たれる。
写経はいいぞ。

誤、貧因、
正、貧困。
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- 2017年05月23日 21:08 |
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写経ヲスルト、
紙ノ上ニハ、ぷらすトまいなすノ、
生命波動ガ充満シマス。
紙ハ生キタ般若心経トナリ、
生命波動発生ノ原型ニナリマス。
高次元ノえねるぎーガ働キマスノデ、
途中デ止メテハイケ(ry

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- 2017年05月21日 19:22 |
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忘れる、というのは、
手には負えない逆説で、
何を忘れたのかを憶えていないと、
忘れるということに気づかない。
そして、忘れたい何かを、
忘れようと意識していたら、
いつまで経っても、
忘れることができなくなる。
得魚而忘筌、
それは、ただの喩えではない。
得意而忘言、は、
得魚而忘筌、に係っている。
得意而忘言、だけでは、
忘れることができず、
得意而忘言、の忘れ方が、
得魚而忘筌、である。
筌は、筌だけでは筌ではなく、
手や足や、川や魚で筌になる。
筌は身体や身の周りの世界と、
別のものではあり得ない。
筌を扱う漁師は、筌になる。
自らが筌であることをやめること、
それが、筌を忘れる、
ということにほかならない。
自らが言葉であることをやめること。
そんなのは、光境倶亡、つまりは、
色即是空としか言いようがなく、
いつまで経ってもできない話だ。
簡単な方法は、
身の周りの世界の、
ほかの何かになることだろう。
筌でも蹄でも犂(すき)でもいい。
荘子を読んで10日め。
そろそろ、荘子を忘れよう。
何も知らないくせに、
くだらないことを書き投げた。
どうか、笑って忘れてほしい!
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- 2017年05月19日 20:02 |
- 荘子
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主客を消滅させる答は、
得意而忘言、である。
しかし、その答は、
問題をこじらせただけで、
まだ解決はしない。
忘れなければならないことを、
忘れずに憶えている。
得意而忘言、を憶えている。
例えば、荘子の「渾沌(こんとん)」で、
こんな話ができればいいけれど、
荘子を読んで10日めの僕は、
手元にある限りのツールで、
やりくりするしかない。
僕にできないことはできないから、
僕にできることをする。
保福問:「長慶盤山道:光境俱忘,復是何物?
洞山道:光境未忘,復是何物?
據二老總未得勦絕。作麼生道得勦絕去?」
慶良久,福云:「情知你向鬼窟裏作活計」
慶云:「汝作麼生?」
福云:「兩手扶犁水過膝」
―― 景徳伝灯録、巻十九
保福が、長慶慧稜に問う。
「盤山は「光境倶亡、復(は)た是れ何物(なん)ぞ」と言い、
洞山は「光境未亡、復た是れ何物ぞ」と言っている。
この二者の説明では、
まだ主客を滅することができない。
どうすれば、滅することができるか?」
長慶は沈黙で答えたが、保福は言う。
「あなたは、鬼の住む暗闇に生きている」
長慶が訊き返すと、保福は言う。
「両手に犂(すき)を扶(ささ)え水は膝を過ぐ」
つまり、「膝まで泥水に浸かって田を耕している」
長慶は、語らないことで、
忘れたふりをすることで、
正解になったつもりでいる。
つまり、得意而忘言、を忘れない。
それは、小利口になっただけ。
問題をこじらせただけ。
正解は、得意而忘言、ではない。
正解は、月を見上げて、
理屈をこねることではない。
保福の「光境倶亡」は、
地べたを見つめて働くことである。

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- 2017年05月19日 12:05 |
- 荘子
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自分にとって、それは、直ちに、
忘れるべき説明に成り下がる。
そこで、思い出したのは、
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「都機(つき)」。
心月孤円、光呑万象。
光非照境、境亦非存。
光境倶亡、復是何物。
以下の20行は、読まなくてもいい。
読んでも、たぶん、解らない。
解るように書かれていないから、
解るほうがどうかしている。
盤山宝積(ばんざんほうしやく)禅師云(いはく)、
「心月孤円(しんげつこゑん)、光呑万象(くわうたんばんざう)。
光非照境(くわうひせうきやう)、境亦非存(きやうやくひぞん)。
光境倶亡(くわうきやうくまう)、復是何物(ぶぜかぶつ)。
<心月孤円、光、万象を呑めり。
光、境を照らすに非ず、境亦(ま)た存ずるに非ず。
光境倶(とも)に亡(まう)ず、復た是れ何物ぞ>」。
いまいふところは、仏祖仏子、かならず「心月」あり。
月を心(しん)とせるがゆゑに。
月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし。
「孤円」といふは、虧闕(きけつ)せざるなり。
両三にあらざるを「万象」といふ。
万象これ月光にして万象にあらず。
このゆゑに「光呑万象」なり。
万象おのづから月光を呑尽(たんじん)せるがゆゑに、
光(くわう)の光を呑却(たんきや)するを、
「光呑万象」といふなり。
たとへば、月呑月なるべし、光呑月なるべし。
こゝをもて、「光非照境、境亦非存」と道取するなり。
―― 正法眼蔵/都機
道元は、底意地が悪い。
こんな説明では、僕は解らない。
よく解らないことを、
理解しているかのように扱えば、
それで思考は終わりになって、
解ったふりだけが上手くなる。
端折っていうと、
見る者と、見られる者が忘れられた世界、
見る主体と、見られる客体が、
亡くなった世界、
光や心と、境や法が、
ともに亡くなった世界、
「光境倶亡」とは、
主客の対立が消滅することをいう。
そんな世界があるのかどうか、
それは、さておく。
問題は、「光境倶亡」について語ること。
問題は、そんな世界を説明するときには、
まず、主客を対立させなければ、
説明できないことにある。
言葉で「光境倶亡」を説明しようとすれば、
主客を分けることになるから、
それは、直ちに、
忘れるべき説明に成り下がる。
復是何物、復た是れ何物ぞ、
その答は、得意而忘言、である。
吾安得夫忘言之人而與之言哉!
夫(か)の言を忘るるの人を得て、
之を言わんや。
正法眼蔵 二/道元 著、水野弥穂子 校注、
1990、岩波文庫
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- 2017年05月18日 19:07 |
- 荘子
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