tetsugaku poet

qinggengcai

哲学は、正直


僕が、今まで生きてきた、
あらゆる経験を捨象しても、
自分、というものが、
どこかに存在すると思えることは、
どういう間違いだろう。

今の僕が、このように在るのは、
そして、このようにしか在り得ないのは、
偶然の積み重ねであり、
別の偶然が積み重なっていても、
それはそれで、別の僕が在り得たと思う。

なぜ僕は、こんな僕であり、
ほかの誰かのような僕ではないのか、
そんな問いが意味を持たないのは、
さまざまな経験をした、
なれの果ての僕が問うからである。

そのように問う僕になったから、
僕はそのように問うのであり、
そのような問いを無化する僕になったから、
もう僕はそのように問うことはない。
もしも、僕が、スピが与えてくれる答を信じるのなら、

スピを信じる僕になり果てただけのこと。



    170629.jpg



僕は、例えば、人が生まれてきた理由、
なんてのは、問いも答も理解できないけれど、
僕が、理解できないのなら、
僕は、理解できないことを大切にする。
不正直に、理解しているかのように扱わず、

正直に、理解できない僕でいい。



私はかつて正しかったし、今もなお正しい。
いつも、私は正しいのだ。
私はこのように生きたが、また別の風にも生きられるだろう。
私はこれをして、あれをしなかった。
こんなことはしなかったが、別なことはした。

そして、その後は?
私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、
ずうっと待ち続けていたようだった。
―― 『異邦人』/アルベール・カミュ 著、窪田啓作 訳、
―― 1954、新潮文庫



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月29日 22:34 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:12

哲学は、不快


反対に、なにより気分が悪いのは、
問いがあって、答がないこと。
答がない問いの答を考えること。
自分で考える気がない人にとっては、
これほど不快なことはない。
答を教わることができないから。

どこかに答があって、
自分はそれを見つけてきて、
理解すればいい、
そんな作法を、考える、
と呼んでいる人にとっては、
答は、教えてもらうものである。

スピは、答のない問いにも、
正解を用意してくれている。
答があるということは、
とても楽ちんなことだ。
本に書かれているにしても、
ネットに載っているにしても。

書かれたことがでたらめでも、
本に騙された、ネットに乗せられた、
などと、被害者になればいい。
誰かの答を信じて、
誰かの真似をしていれば、
誰かのせいにして生きられる。

たとえ、それが、
どんなに信じ難い答であっても。



    170608.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月25日 00:58 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

哲学は、現実


気分がいい考えごとは、気分がいい。
同語反復だから当然だ。
        自分にとって気分がいいことを信じると、
        信じる自分は気分がよくなる。
何も言っていないくらいに、
当たりまえなことだ。

        スピを信じれば、ご機嫌になれる。
        それだけでスピは、信じるに値する。
みんな、ご機嫌に暮らしたいから、
気分が悪いことなど、
        誰だって、信じたくはない。
        できれば、嘘にしてしまいたいくらいに。

スピは、ご機嫌な娯楽で、
愉快なエンタメだ。
        娯楽で、エンタメなのに、
        スピは、現実の世界に娯楽を持ち込む。
現実の判断基準にエンタメを用いる。
それが真実の世界の、
        尺度なのかもしれないが、
        そんな物差しで測っても、

        現実の世界は、嘘にはならない。



    150105c.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月24日 18:12 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

哲学は、自分


その判断基準の、
不合理性はさておく。
スピが輪廻を信じたいのなら、
信じればいい。
        問題は、その当否を、
        主体的に捉えようとしない、
        自分のなさにある。

オウムの実行犯は、
生まれ変わりを信じて、
他人の生命を、
軽く扱うことができた。
        しかし、自分の生命に、
        危険が及ぶと、
        逮捕を恐れて逃亡する。

つまり、輪廻は他人事で、
自分の生命は、
輪廻によっても、
少しも軽くならない。
        輪廻が自分の問題になって、
        やっと不合理に気づく。
        そんな無自覚な主体性のなさは、

        差別や、いじめや、
        あらゆる不合理を支える意識と、
        等質なものである。



    160422.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月23日 12:36 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

哲学は、主体


本当の自分なんて、
どこかに在るほうが困る。
僕は、嘘の客体を、
生きているつもりはない。

本当の自分に、
考えてもらえば、
嘘の自分は楽ちんだろう。
何も考えなくても生きられる。


人は死んでも、
何度でも生まれ変わる、
そう思っている人とは、
一緒に何かを考えられない。

最初から、そんな言い訳だか、
なぐさめだかを、
隠し持っている人とは、
一緒に生きて行けない。

そんな人には、恋愛も、
子育てもしてもらいたくない。
クルマの運転もしてほしくない。
他人と関わらないほうがいい。

他人との接し方も、
毎日の小さな判断も、
生命の重さも、
たぶん、僕とは違っている。


現実を嘘にして、
生まれ変わりを信じる。
そんな夢物語を許す理由は、
その当否を考える、

主体がないからである。



    160425.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月22日 20:23 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

哲学は、黙る


僕たちが理解している世界など、
幻想にすぎない。
真実の世界は別にある。

その通りだと思う。
僕だって、そう思っている。
僕の世界は、僕の誤謬の投影である。

僕は、そこで、黙る。
真実の世界があったとして、
そんなものは、僕には語れない。

誰かが真実の世界を語るのなら、
真実で語られたその世界も、
誰かの誤謬の投影に過ぎない。


科学は、世界の解釈の一例で、
世界の解釈は、いくつもある。
僕だって、そう思っている。

僕は、そこで、黙る。
正当な解釈があったとして、
そんなものは、僕には語れない。

誰かが、正当な解釈をするのなら、
正当に解釈されたその世界も、
世界の解釈の一例に過ぎない。


僕は、何も言わないから、
真実の世界や、正当な解釈を語ればいい。
哲学が黙り込む地点から、

スピは急におしゃべりになる。



    161002.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月20日 23:03 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

哲学は、遅い


哲学は、もの分かりが悪い。
スピがふつうに使っている、
愛とか、真理とか、神とか、
そんな言葉が解らない。

だから、スピにとっては、
心地よいフレーズが、
哲学には、とらえどころがなくて、
なんだか不快に思えてくる。

それらは、哲学が、
好んで取り上げる主題だが、
哲学は、考えて考えて、
恐る恐る定義する。

自分の経験に基づいた心の内は、
まだ言葉を与えられていない。
だから、言葉は、
ぎこちなく差し出される。

心の内の言語化は、
どこかに書いていたことや、
誰かの言葉の繰り返しに、
置き換えられるものではない。

ありきたりな言葉に、
落とし込むことはできないし、
誰とでも分かり合えるような、
ストーリーにはなり得ない。

それは、哲学にとっては、
何より大切なことで、
哲学に言わせれば、
スピは、大切なものを失っている。

スピに言わせれば、
哲学は、感性が鈍いのだろう。
ぐるぐる悩んでいるだけで、
低い次元から抜け出せない。

哲学は、まどろっこしくて、
じれったくて、とにかく、遅い。



    170615.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月15日 22:31 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:12

哲学は、疑う


正しさを求める人は、
自分の中に、
正しさと疑わしさが、
並存することを許容しない。

だから、哲学は、
スピを疑うわけではない。
疑うに値しないくらいに、
もとより、スピは不確かだから。

哲学は、哲学を疑う。
例えば、スピを信仰とするのなら、
哲学も信仰ではないのか、
などと疑うから面倒くさい。

スピなど、相手にしていない。
例えば、スピが不合理なら、
哲学も不合理ではないのか、
などと疑うから厄介だ。

スピは、スピを、
信じて疑わないのだろう。
対して、哲学は、
哲学を信じていない。

哲学は、スピなど疑わない。
哲学は、自らを疑う。



    140821c.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月13日 19:34 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:42

哲学は、届く


スピの発想で生きている人には、
哲学の発想で生きている人が、
何を考えているのかを、
まったく理解できない、
そんな気がしている。

つまり、僕が、
この何日かで、何を考えて、
何を書いているのかは、
スピには、読み解くことができない、
そう思っている。

それでも、構わない。
届いた先を宛先として、
メッセージは届く。
僕は、スピの発想の人たちを、
宛先にはしていない。

スピと対立したいわけではない。
スピの発想を否定し、
攻撃したければ、
直截に悪口を書くことくらい、
たぶん、僕にでもできる。

片手間に、書き投げたような、
決して、出来のいい文章ではないけれど、
もしも、まがりなりにも、
それが哲学なら、
哲学は、哲学に届く。

そして、スピに届くようなメッセージなど、
僕には、論ずるに値しない。



    170611b.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月11日 18:12 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

哲学は、吐く


        世の中には、
        矛盾と不合理があふれている。
この世界は、きっと、
本当の世界ではない。
        スピも、哲学も、
        どちらも、そう思っている。

スピは、現実を軽視する。
現実は、虚構の世界だから。
        例えば、高次の世界や、
        霊性の世界を作って、
それを本当の世界にする。
現実の世界を語らない。

        高次の世界は、
        科学では解明できないし、
僕ごときには、
認識できないらしい。
        いやな現実を嘘にして、
        気分がいい本当を提供する。

スピは、気分がいい。
スピは論証不能な信仰だから、
        合理性はいらない。
        スピは、考えなくてもいい。


        哲学も、現実に立ち止まり、
        動けなくなって、しかし、
高い次元にも、霊にも、
どこにも行けない。
        立ち尽くしたまま、
        途方に暮れている。

矛盾と不合理があふれている、
そんな世の中で合理を通すことは、
        どうしようもなく困難で、
        気分がいいことではない。
やがて、哲学は、掘り下がり、
自らの合理さえも疑い始める。

        合理的であることを、
        僕が、正しいと考えること、
それ自体は、必ずしも、
合理的とはいえない。
        僕の合理性への無反省な帰依、
        それはひとつの信仰である。

哲学は、気分が悪い。
吐き気が止まらない。
        合理性を壊すときにも、
        合理性は、合理性を求める。

        考えずにはいられない。



    150105a.jpg



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2017年06月10日 19:43 |
  2. 反スピ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:14