善は、道徳的な価値判断だが、
善いとか、良いとか、好いとか、
僕たちは、いちいち区別なんかしない。
意味も、価値も、判断でさえ、
まったく副次的なことである。
善とか、悪とか、
正しいとか、間違っているとか、
そんなことはどうでもよくて、
ものごとがうまく機能していれば、
それだけで、善になる、正しくなる。
知ること、考えること、感じること、
それらを分けることもない。
知識と、思考と、感情は混同されて、
他人の意見も、自分の意見も、
まるで区別なんかしない。
そんなある種の純真さが、
善人を善人にさせるのだろう。
自らを善人と標榜するのなら、
そんな思い上がりは、
直ちに善人らしさを欠くから、
それだけでも善人なんて、
少しも善人ではなくなるけれど、
何につけ、悪気がないから、
許されるのが善人である。

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- 2017年07月30日 21:41 |
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1時45分、リトルボーイを載せて、
テニアン島からB-29が飛び立つ。
エノラ・ゲイの乗務員は12名、
全員がカトリック教徒。
そして、もう1人乗組員がいた。
George Zablecka、
カトリックの従軍神父。
善人なら、その良心は、
大量殺戮を許さないだろう。
しかし、神父が乗り込めば、
原爆投下を躊躇しない。
善人なら、悪行を為すためにも、
良心が必要になる。
8時15分、十全なる悪が為された。
人は良心によって悪をするときほど、
十全にまた愉快にそれをすることはない。
―― 『パンセ』/パスカル、前田陽一、由木康 訳、
―― 1999、中公文庫
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- 2017年07月29日 20:01 |
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一人称の文章を作っているかぎりは、
ほとんどが感情の表れであり、
僕にとっては、間違えることはない。
感情なら、人それぞれ、であり、
思ってしまうものは仕方がない。
ところで、愚考は、
表さなければ愚考ではない。
自ら表現することを、
自ら許容するから愚考になる。
愚考とは、愚かさの表れを許すことだ。
みんなと同じ文章になるのなら、
僕には表現する動機がない。
例えば、誰もが正しいと思っていることなら、
僕も、自分の言葉なんか持たなくてもいい。
回りくどい説明など不要だろう。
表現したくなるのは、
みんなと違っていることであり、
それを知っていて表すのなら、
自分の言葉で表現せざるを得ず、
いきおい、愚かな考えになってしまう。
では、なぜ、僕は、
愚かな考えを書き表すのか。
僕が、何かを、善であると、
あるいは、悪であると表現するときには、
意味を含んでいる。
善いことだからやってくれ、
あるいは、悪いことだから控えてくれ、
そんな意味を含んでいる。
それは、善悪を表現するときの成分だ。
僕の要求が、僕の善悪である。
嘘っぱちの、犬のような、
思考しない善人なら、
僕は、やめてくれ、と言っている。
愚かな考えとしか言いようがないが、
僕が書き表したいことは、
もとより、すべて愚考である。
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- 2017年07月27日 23:06 |
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神が、それを悪とみなせば、
吠えない、咬みつかない、殺さない。
神が、それを善とみなせば、
吠える、咬みつく、殺す。
人は、宗教的確信に促されて、
完璧に、喜んで、悪を為す。
人は良心によって悪をするときほど、
十全にまた愉快にそれをすることはない。
自らに、善悪の、
価値判断の基準がない者は、
考えるということを知らず、
善人にはなれても、
人にはなれない。
考えない人は弱い。
人は、考えるから強くなれる。
人間はひとくきの葦にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
考えることによってのみ、
人は、宇宙よりも優位になれる。
空間によっては、
宇宙は私をつつみ、
一つの点のようにのみこむ。
考えることによって、
私が宇宙をつつむ。
宇宙を認識する者がいなければ、
宇宙は認識されず、
認識されない宇宙は、
存在しないに等しい。
宇宙は、何も知らない。
―― 『パンセ』/パスカル、前田陽一、由木康 訳、
―― 1999、中公文庫
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- 2017年07月24日 20:09 |
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善人になろうとする理由が、
神にほめられることや、
神の罰を避けることだとすれば、
善人は、人ではない。
気に入らない相手に吠えて、
咬みついて、殺してしまうことが、
神にほめられるときには、
善人は、とんでもない悪を為すだろう。
その善人は、人ではない。
飼い犬みたいなものだ。
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- 2017年07月24日 12:41 |
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というわけで、
善人、という人はいない。
善が相対的なら、
善人も相対に回収させて、
当たりまえに帰結する。
心の底から本気で、
自分を善人と思える人は、
宗教か、何かの思い違いか、
その思いを支えるものは、
いずれにしても、善ではない。
善人たちは、人それぞれ、とか、
みんな違ってみんないい、とか、
寛容ぶったことを言うけれど、
そんなのは、相対ではなく、
思考停止のフレーズである。
違っていい程度も、
良いと思える範囲も、
あらかじめ定まっていて、
その閾値を超えたときは、
善人は、いいなんて言ってくれない。
善人が好きなフレーズは、
見かけが正しくて、
きれいだから、疑えないし、
疑っても、善人には分かってもらえない。
寛容なふりをした不寛容で、
無自覚な嘘っぱちで、
そんなのが、最も人を傷つける。
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- 2017年07月23日 12:16 |
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善人は、正しい。
しかし、人それぞれに正しさがある、
なんて、正しいことを言うくせに、
自分が善人になるのは矛盾する。
きっと、それぞれの正しさ、
なんて寛容さは、
善人は持ち合わせていない。
人それぞれ、なんていう、
自分の正しい意見は、
ありがちな、みんなの意見の、
コピーに過ぎないけれど、
それでも、自分は善人になって、
みんなを善人にさせない狭量さが、
善人らしさなのだろう。
それぞれの人が、みんな、
人それぞれ、と言うのは、
それぞれなのか、
それとも、みんな同じなのか。
きっと、善人なら、
そんな語義矛盾については、
一生に一度も考えない。
人それぞれ、と言いながら、
自分を嫌い、と思う、
そんなのは、論理的に矛盾するから、
善人は自分が好きに違いない。
自分は、心が広くて、人に優しい、
そう思い込んで、疑うことがない。
そんな厚かましさが、
善人らしさなのだろう。
でも、人それぞれだからといって、
人それぞれについて、
考えたことがない人と、
5分でも考えた人の意見が、
同じ価値で尊重されるべきではない。
そして、自分を善人と思えるのは、
おそらく、善悪について、
考えたことがない人である。
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- 2017年07月22日 19:07 |
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善人は、正しい。
善人は、自らの考えが正しく、
その考えが他人にとっても正しいと、
信じて疑わない。
だから、善人は、自信を持って、
善人になることができる。
善人は、面倒くさい。
悪意なら、そっけなく、
はねつけることができるけれど、
善意は、冷たくあしらえない。
だから、善人は、自信を持って、
善人らしくふるまうことができる。
僕が、善人の善意を拒絶すれば、
なぜか、悪人にされてしまう。
善人の反対が、悪人なわけでも、
善悪の二択しかないわけでも、
ないとは知っているけれど、
とりあえず、悪人になり下がる。
善人は、恐ろしく強い。
善意が受け容れられるときは、
善いことをしたから善人になり、
受け容れられないときでも、
相手を悪人に仕立てることで、
善人である自分は揺るがない。
悪人は、僕を疲れさせるけれど、
善人ほどではないと思われる。
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- 2017年07月21日 20:04 |
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難しいのは、考えることではない。
考えるなんて、簡単なこと。
難しいのは、説明できないことを、
無理にでも説明しようとする自分を、
自分で抑え込むこと。
分からないことを、
分からないと言うこと。
善、悪、善悪。
それらは、まだ、
中味が詰まっていない概念だから、
空疎な概念は、空疎なままで扱う。
空疎な概念から得られるものが、
ふわふわの、つかみどころのない、
さらに空疎な概念になってもそれでいい。
善、悪、善悪。
それらは、まだ、
質量がなくて、温度が低くて、
感情的な余剰性がない。
善人もいない、悪人もいない。
多くを語れば、嘘になるから、
余白を残して、空けておく。
善、悪、善悪。
それらは、まだ、
意味が書き込まれていないから、
その実質があるとするなら、自らの、
言葉を投げ入れる努力にほかならない。
手持ちの限られたツールで、
それでも、折り合いをつけに行く。
善、悪、善悪。
それらに意味を与えるのは、
問いの前に立った自分である。
他人の善悪では代えられない、
替えのきかない自分である。
自分の替えのきかなさが、
善悪の絶対性を奪っている。
善、悪、善悪。
それらは、まだ、
言い表せないけれど、
いずれ、不代替な自分である。
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- 2017年07月18日 12:04 |
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常識よりも、正直を優先させる。
誰かが知っていることでも、
自分が知らないのなら、
知っているように扱わない。
立派なことを考えて、
誰かにほめてもらっても、
自分は少しも立派にならない。
善は、どこかに答があって、
それを理解すればいい、
というものではない。
まだ答のない問いを、
引き受けることである。
自分の問いとして、
立ち止まることである。
原理主義者には、
プリセットされた善があるのだろう。
例えば、聖書原理主義者の間なら、
共有している聖書のインデックスを、
互いに指示し合えばいい。
答はすでに書き込まれていて、
それを理解すればいい。
僕は、聖書を持ち歩かないから、
考えなければならない。
僕は、手ぶらだから、
自由にツールを選ぶことができる。
しかし、問いを前にしたときは、
手持ちのツールは、
がらくたの寄せ集めで、
まるで使えないことを思い知る。
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- 2017年07月17日 12:17 |
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