個人には多様性があり、
考え方は「人それぞれ」に違う。
個人は平等に扱われるから、
それぞれの考えは等価だ。
短絡が感じられるとしても、
利口で、立派な意見だと思う。
しかし、そんなのは、自由で、平等で、
優しいけれど、嘘だと思う。
あるいは、憲法の条文でも、
練っているつもりだろうか。
僕は、毎日の生活で、
個人を平等には扱っていない。
差別主義といってもいいくらいに、
決定的な価値づけをしている。
僕には、少数の大切な人たちがいて、
多数のどうでもいい人たちがいる。
そして、膨大な数の、関心の持ちようがない、
まったく知らない人たちがいる。
「人それぞれ」というときの「人」は、
「それぞれ」でも構わない「人」である。
どうでもいい「人」の正しさや、
まったく知らない「人」の正しさである。
僕は、大切な「人」には、
「人それぞれ」なんて思えない。
僕は、どうでもいい「人」を、
「人それぞれ」に埋もれさせて、
家族や、恋人や、友達や、
僕にとっての特別な「人」を、
「人それぞれ」から引き上げている。
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?
―― 傘がない/UA
―― 井上陽水 作詞作曲、1972、Polydor
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- 2018年03月31日 21:01 |
- 馬鹿
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人は、それぞれ、常に、必ず、
自分が正しいと思っている。
自分は間違えているかもしれない、
と疑うときでも、
間違えている可能性を疑う自分を、
正しいと思っている。
自分は間違えていると、
認めるときでも、
間違えていると認める自分を、
正しいと思っている。
自分が正しい、
と思い込むのは間違いだが、
自分が正しいと思い込むのは間違いだ、
と思い込む自分は正しいと思っている。
「自分が正しいと思っている」
そこからは逃れられない。
「自分が正しいと思っている」
それは、あらゆる正しさにくっついてくる。
「自分が正しいと思っている」
それは、あらゆる正しさにくっついてくる、
と思う自分は正しいし、
『「自分が正しいと思っている」
それは、あらゆる正しさにくっついてくる、
と思う自分は正しい』
と思う自分は、どうしようもなく正しい。
笑う人には笑っといてもらおう
風は西から強くなっていく
―― 風は西から/奥田民生
―― 奥田民生 作詞作曲、2013、Ki/oon Music
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- 2018年03月30日 00:21 |
- 馬鹿
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「人それぞれ」ってのは、
省略された断片と仮定して、
人は、それぞれ、何がどうなんだろう。
何をどう補ってみようか。
「人それぞれ」の後に続くのは、きっと、
最後まで言ってしまうと、
みもふたもなくなるような事実である。
例えば、人は、それぞれ、
「自分が正しいと思っている」

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- 2018年03月29日 21:06 |
- 馬鹿
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「人それぞれ」に、
何をどう補ってみようか。
つまり、人は、それぞれ、
何がどうなんだろう。
そんなことに足を取られて、
つかの間、動けなくなる。
そんなことを考えてどうなるのか、
なんて訊かれると困る。
考える、ということは、
考えようと思って考えるものではないし、
考えないでいようと思っても、
考えないでいられるものではない。
どうにもならないことを考えるのが、
哲学だと思っている。
考えてどうにかなるのなら、
損とか得とか、勝ち負けの問題だろう。
機会費用を考慮するのなら、
僕は、利益を取り損ねているけれど、
損得でも、勝ち負けでもないのが、
哲学だと思っている。
利口で、有能な人なら、
おそらく、そんなことは考えない。
おそらく、そんなことを考える、
ということを知らない。
たぶん、一生に一度も。
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- 2018年03月27日 00:03 |
- 馬鹿
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「人それぞれ」、
それだけで意味は通じるけれど、
断片的なので、補ってみようと思う。
「人それぞれ」、
なぜ、そんな断片だけで意味が通じるのか、
なぜ、捨て台詞として機能するのか。
「人それぞれ」、
その後に続く何かを補いたくないから、
断片のままで流通させている、
なんとなく、そう思っている。
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- 2018年03月26日 12:02 |
- 馬鹿
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人それぞれ、
なんて結ぶのではなく、
そこから端緒を開いてみる。
それを結論にするのはずるい。
人それぞれ、
を結論にして立ち去れば、
それは、言い放って、
返答を求めないような、
捨て台詞に成り下がる。
それが自由とでも言いたげに。
人それぞれ、
そんなのが、自由なのか。
でも、それを言っておけば、
さしあたり、とりあえず、
反論されることはないんだ。
僕らの自由を 僕らの青春を
大げさに言うのならば きっとそういう事なんだろう
―― イージュー☆ライダー/奥田民生
―― 奥田民生 作詞作曲、1996、Sony Records
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- 2018年03月25日 12:06 |
- 馬鹿
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善悪は、議論が成り立たないことを、
知っている人たちとなら、
議論が成り立つ逆説である。
因果は、論理的な思考で述べられないことを、
知っている人たちとなら、
論理を述べることができる逆説である。
だから、議論をしている人たちは、
論理を語っている人たちは、
想像を絶して、思考力を持っていない。
―― すばらしい日々/ユニコーン
―― 奥田民生 作詞作曲、1993、Sony Records
善悪も、因果も、嘘なんだけれど、
僕たちは、何の因果か、人だから、
善にも、悪にも振り分けられてしまう、
そんな幸不幸だけがある。
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- 2018年03月22日 20:02 |
- 馬鹿
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ある事象を善因と呼び、
ある事象を善果と呼んで、
それぞれの事象を、
観察することはできる。
原因と結果に関係があるとして、
―― ある事象とある事象を選べば、
もう関係ができているのが前提だから、
いまさら関係を仮定するのは変だけど、
しかし、因果関係それ自体は、
観察することはできない。
観ることも、聴くこともできない。
それは、観察する者の信仰である。
因果関係があるとか、ないとか、
それは議論をしているようで、
議論にはなっていない。
互いの信仰をアピっているに過ぎない。
どちらが正しいのかは証明できず、
つまり、因果関係があっても、
それがなくても、本質的には、
価値に差はないと言っていい。
そこに差を見出すとするなら、
それは、選好を示すということだろう。
つまり、好き嫌い、である。
善因善果は、それが好きか、嫌いかである。
好みが一致すれば言葉が通じるし、
一致しなければ通じない。
何が正しいか、正しくないか、
論理的か、非論理的か、
そんなことは、どうでもいいんだ。
善人は報われなきゃならない。
嘘でも、誤りでも、
報われるのが正しい。
僕は、言葉が通じる人たちと、
善因善果を観たいんだ。
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- 2018年03月20日 00:28 |
- 馬鹿
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善が共同体の利益だとしても、
共同体の利益である善、それ自体は、
善いから善い、というほかはないだろう。
73年前の敗戦の前にも、
150年前の明治維新の前にも、
その前にも善悪があって、
かつての善が悪になったり、悪が善になったり、
善悪は、無理くりに、ねじ曲げられて来たけれど、
後から遅れてこの世界に来た僕には、
後から遅れて来た善悪が、
どれもまっすぐな善悪に見えている。
かつての善悪が、曲がって見えている。
そう見えるし、そうとしか見えないし、
まっすぐに見えるものは、
どうしたって、曲がっては見えない。
そんなものは、議論をしても決着はつかない。
善悪の議論は、信仰の押しつけで、
根拠を要さずに、自分が信じていることが正しい。
信仰と信仰との言い争いは、
議論をしているようで、議論にはなっていない。
互いの信仰をアピっているに過ぎない。
どちらが正しいのかは証明できず、
つまり、善も、その善に対しての悪も、
本質的には、価値に差はないと言っていい。
そこに差を見出すとするなら、
それは、選好を示すということだろう。
つまり、好き嫌い、である。
好みが一致すれば言葉が通じるし、
一致しなければ通じない。
互いに、見当違いな言葉ばかりが返ってきて、
言葉が通じない者とは議論が成り立たず、
善は、悪を打ち負かすゲームになる。
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- 2018年03月19日 21:04 |
- 馬鹿
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善悪は、自由の閾値(しきいち)である。
そこを境に、僕のよいこと、悪いことの領分がある。
そこは、共同体から解放された領分であり、
よいことを選ぶのはもちろん、何も選ばないのも、
悪いことを選ぶのも自由になる。
善悪が対立する閾値の外は、
僕には、自由とはいえない。
僕は、いつだって、よいことを行い、
それが、閾値の外からは悪とされても、
閾値の内では不可侵性は保たれる。
僕たちが、よいことも、悪いことも選べるときは、
世の中的には、取るに足りないような、
どうでもいいような選択しか残されていない。
重要な、価値が高い選択なら、
法律に規定され、選択の余地はない。
だから、僕たちの選択は、
悪いことではなくて、よいことをする、
それくらいの意味になる。
それは、定義できないままの、
括れないままの、よい、ってことだ。
そこには、共同体の利益に反しない限りで認められた、
よくても、よくなくても、悪くても、
差支えないくらいの些末な、よい、がある。
ただし、感情や思考が含まれる。
倫理や、道徳や、宗教や、善と悪とが含まれる。
善の定義が困難なのは、それぞれの領分の善を、
定義しようとするからである。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2018年03月18日 00:07 |
- 馬鹿
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