因果関係とは、原因と結果の関係。
ある出来事が、別の出来事を引き起こすこと。
例えば、鞄の肩紐が壊れて、鞄の落下を引き起こし、
鞄が落ちて、僕の肩が軽くなる感じを引き起こす。
でも、まだまだ僕は馬鹿っぽい。
僕たちは、いちいちそんな説明はしないもの。
僕たちは、もっと一般的な意味にまとめるから。
例えば、経年劣化とか、老朽化とか。
僕の鞄は、経年劣化で壊れていて、
経年劣化の意味には、その原因も内包しているし、
僕の鞄は、老朽化で使えなくて、
老朽化の意味には、その結果まで内包している。
原因は、特定の、あの時の、
肩に掛けた際のボルトの回転ではなく、
別の、特定の、あの時の、
肩から外した際のナットの回転でもない。
だから、一般的な意味にしないと、
僕には、原因は語れない。
半回転でも、4分の1回転でも、
ボルトとナットが掛かっているのなら、
まだ、結果は生じていないし、
だから、まだ原因も生じていない。
原因と結果は、先後ではなく、同時に現れる。
そして、時間はいつだって現在であり、
原因と結果は、現在に、同時に現れる。
それを知っていても、そうとは思えないけれど。
世界の約束を知って
それなりになって また戻って
―― 若者のすべて/フジファブリック
―― 志村正彦 作詞作曲、2007、EMI Music Japan
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- 2018年08月31日 00:22 |
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>いきなり肩が軽くなったら、
>古くてボロい鞄が落ちて、
>その肩紐の、ギボシのネジが取れていた。
ついつい、認識した順番に書いてしまったけれど、
今なら、時系列に並べ替えることができる。
僕だって、そこまで馬鹿ではない。
鞄の肩紐の、ギボシのネジが取れたから、
古くてボロい鞄が落ちて、
いきなり肩が軽くなったんだ。
並び替えの函数には、因果関係、を用いた。
原因が先で、結果が後、
因果関係は、そのまま、先後関係のことである。
そして、鞄が壊れた、っていう、
そんなくだらない経験にも、
僕は、言葉を与えてみようと試みる。
それが、大人の仕事である。

経験ということは、
たしかに人間には必要だと思うのですが、
どんなに経験しても、
人間というものはその経験を
想像力のなかで造形できなかったら
経験にならないわけです。
―― 反劇的人間/安部公房 著、1979、中公文庫
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- 2018年08月30日 12:03 |
- 自分らしさ
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8月19日の「古くてボロい」で、
僕は、変てこな文章を書いている。
駄文とか、下手くそとかはさておいて。
>いきなり肩が軽くなったら、
>古くてボロい鞄が落ちて、
>その肩紐の、ギボシのネジが取れていた。
こういうところが、
自分でも馬鹿だと思うけれど、
時系列に沿えば、まるで逆である。
鞄の肩紐の、ギボシのネジが取れたから、
古くてボロい鞄が落ちて、
いきなり肩が軽くなったんだ。
いまさら、言い訳をすれば、
過去と未来は、後からできる。
時間はいつだって現在であり、
過去と未来は、現在に媒介されている。
過去は、現在と未来でできていて、
未来は、現在と過去でできていて、
過去と未来は、別のことではない。

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- 2018年08月26日 12:14 |
- 時間
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開国という意味には、
自己を外つまり国際社会に開くと同時に、
国際社会にたいして自己を国=統一国家として画する
という両面性が内包されている。
―― 「日本の思想」、丸山真男
「自己」に引きつけて考えれば、
過去、ってのは、現在の僕の理解でもって、
過去を規定する、ってことだ。
愚かな僕の理解を超える過去は、
愚かな僕には思いもつかない。
過去は変えられない、
未来は変えられる、なんていうけれど、
僕は、未来を企てることで、
僕のしょぼい過去にも、
新たな意味を持たせることができる。
未来を画する、ということは、
過去を画する、ということであり、
過去と未来は、別のことではない。
過去は、現在と未来でできている。
現在と未来が過去を規定する。
では、過去くらい不確かなものはない。
現在と未来によって、
その都度、プロットが書き換えられる。
自分に照らせば、
歴史に客観性はない。
歴史と、取るに足らない僕の過去を、
一緒にしてはいけないし、
論理ではなくて、
実感に偏っているし、
客観的な根拠もないけれど、
もう試験を受けることもないから構わない。
僕が歴史と関われば、
そこに客観性を求めるのは欺瞞である。

―― 日本の思想/丸山真男 著、1961、岩波新書
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- 2018年08月25日 19:31 |
- 歴史
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開国という意味には、
自己を外つまり国際社会に開くと同時に、
国際社会にたいして自己を国=統一国家として画する
という両面性が内包されている。
―― 「日本の思想」、丸山真男
開国、というのは、もちろん、
江戸の終わりの開国のことで、
僕とは何の関係もない出来事で、
当然、僕が考えることではなく、
僕には、考える、という発想もない。
歴史は、考えても仕方がない。
正解を憶えるものだ。
知識があるか、ないかの、それだけのことだが、
しかし、それにしても、
「自己」という言葉づかいは何だろう。
平成の終わりの僕に引きつけて、
僕との関係を見つけようとするなんて、
それだけで、なんだか、
おこがましい気がしてくるけれど、
「自己」という表現に誘われてみる。
「自己」という、それ以外に、僕は、
どうやって歴史と関わることができるのか。
歴史を、僕の主観的なものにする以外に。
自己を外に開くと同時に、
自己を内に画する、この両面性は、
自分に照らせば容易に理解できる。
外と内とは、別のことではない。
自分を外に開くためには、
自分が内に閉じて、
ブレずにまとまっていなければならない。
国を国外に開くためには、
国内を統一国家に束ねる必要がある。
そんなものは、一緒にしてはいけないし、
論理ではなくて、実感に偏っているし、
客観的な根拠もないけれど、
もう試験を受けることもないから構わない。
僕が歴史と関われば、
歴史は僕の主観である。

―― 日本の思想/丸山真男 著、1961、岩波新書
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- 2018年08月24日 21:38 |
- 歴史
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経験ということは、
たしかに人間には必要だと思うのですが、
どんなに経験しても、
人間というものはその経験を
想像力のなかで造形できなかったら
経験にならないわけです。
―― 「反劇的人間」、安部公房
どこに行って、何をしても、
そこで撮った写真に、
確かに自分が写っていても、
まだ言葉が与えられていないうちは、
その経験は、まだ経験ではない。
経験が、経験にならないのは、
考えないからである。
考えた形跡がないということは、
自らの経験に基づいて、
語られていないということだ。
経験は、経験のままでは、
まだ経験とは呼べない。
画像とハッシュタグだけでは、
まったく経験にはなっていない。
経験したから身についたのではない。
僕たちは、様々な経験の中から、
身についたことを取り上げて、
自らの経験を再定義する。
すべての経験が身につくわけではない。
逆説的だが、身についたのは、
思考を巡らせたからである。
でも、それに気づくのにも、
相当に時間がかかるから、
若者たちなら、まずは、
様々な経験をすることから始めればいい。
ぼんやりした経験を言葉にするのは、
後回しにしてもいい。
もっと大人になってからでもいい。
それは、大人の仕事である。
それが、大人の仕事である。
大人が、それをサボってはいけない。

夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なもので ぼんやりさせて
―― 若者のすべて/フジファブリック
―― 志村正彦 作詞作曲、2007、EMI Music Japan
―― 反劇的人間/安部公房 著、1979、中公文庫
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- 2018年08月21日 00:03 |
- 自分らしさ
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他人によく見られたい、
他人に認めてもらいたい。
もちろん、それは大切で、
それに気を配るのは当然として、
しかし、他人が自分をどう思うか、
ってのに寄り掛かっていると、
自分が自分をどう思うか、
ってのを置き違える。
例えば、無理な写真を撮って、
加工して、盛りつけて、
SNSに載せている人たちは、
自分がしたいことではなくて、
他人がしたいことを(以下略

自分がしたいことをしているのなら、
それは、誰にも証明しなくてもいい。
盛った写真で、誰に証明する必要が(以下略
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- 2018年08月20日 19:54 |
- 自分らしさ
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それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
頑是ない歌、『在りし日の歌』より/中原中也
―― 結詞/井上陽水
―― 井上陽水 作詞作曲、1976、FOR LIFE
―― 中原中也詩集/大岡昇平 編、1981、岩波文庫
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- 2018年08月19日 00:14 |
- ラパン/ミニ
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