興味の好みは明確で、
不思議で、いかがわしくて、
弱くて、そして小さいもの。
だったら探さなくても、
それは、子供ではないのか?
記憶にある風景なんかよりも。
失ったものは、子供の視点で、
代わりに得たものは、もの知りで、
博覧強記な、大人の視点だ。
それは、高層ビルと駄菓子屋を対立させて、
弱くて小さいものがよいとする、
使い古されたテンプレ。
あるいは、昔はよかった、という、
鉄板で作られたテンプレ。
考える、ということを知らないトレース。
それにしても、吉田兼好も、松山巖も、
自分が何を言っているのか、
まるで分かってないらしい。
よかった昔を、よくない今に、
変えたのは誰だ?
今どきの子供が変えたのか?
嫌いとか、醜いとか、
免罪符に書き込んで、子供たちには、
原罪のように背負わせる。
>種村さん、見ないでよかったよ。
何を言っているのだろう。
子供たちは、生まれたときから、
毎日、見ているのに。
どんなときも どんなときも ビルの間 窮屈そうに
落ちて行く夕陽に 焦る気持ち溶かして行こう
―― どんなときも。/槇原敬之
―― 槇原敬之 作詞作曲、1991、WEA MUSIC
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- 2019年01月30日 00:04 |
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>種村さん、見ないでよかったよ。
種村さんが見ないでよかったのか、
種村さん、って呼びかけて、
見ることがなかった種村さんを、
松山巖が羨んでいるのか、
読み手は、自分が読みたいように読むけれど、
いずれにしても、昔はよかった、ってことだ。
駄菓子屋があって、子供たちが遊んでいた。
不思議なもの、いかがわしいもの、
弱いもの、小さいものがすぐに見つかって、
街に共存することが許されていた。
それに引き替え、現在は。
なに事も、古き世のみぞしたはしき。
今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。
文(ふみ)の詞(ことば)などぞ、
昔の反古(ほうご)どもはいみじき。
ただ言ふ言葉も口をしうこそなりもとゆくなれ。
―― 徒然草、第二十二段
何ごとも、昔はよかった。
現在は、むやみに下品になっていく。
手紙の言葉なども、
昔の手紙は立派だった。
ふだんの話し言葉も、
失望を感じるようになっていく。
って、吉田兼好が、
鎌倉時代に書いているのは、
種村さんなら、当然、知っていただろう。
“昔は良かったね”といつも口にしながら
生きて行くのは本当に嫌だから
―― どんなときも。/槇原敬之
―― 槇原敬之 作詞作曲、1991、WEA MUSIC
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- 2019年01月29日 00:37 |
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種村季弘さんが亡くなってちょうど一年になる。
とてつもない物知りで、博覧強記という言葉がぴったりの人だったが、興味の好みは明確で、不思議なもの、いかがわしいもの、弱いもの、そして「小さいもの」であった。
亡くなる半年ほど前に、『江戸東京≪奇想≫徘徊記』を著した。
気の向くまま東京のあちこちを歩きながら、江戸随筆を渉猟し、記憶も重ねて、それぞれの土地に伝わる不思議な物語を解読してゆく。
池袋に生まれ、東京だけでも十回は引っ越した種村さんならではの著作だった。
ところがかつて住んでいた土地を訪ねはじめると、記述に慨嘆が多くなる。
なにしろ記憶にある風景は消え、高層ビル群に変わってしまった場所ばかりだからだ。
だからこそ両国界隈で、覚えていた駄菓子屋がまだ健在で、子供たちが近くで遊んでいると大いに喜ぶ。
そして以来、種村さんは「小さいものへと目が行きがちになる」のだ。
しかし結局小さなものはなかなか見当たらず「もう成長はいい加減たくさん」と嘆くのである。
さて、現在の状況はさらに凄い。
八月の日曜日、私は都市計画を学ぶ若い友人たちと都心を三時間ほど歩き、超高層ビルと巨大ビルの乱立状態を見て回った。
これらはなじみの風景を消しただけではない。
巨大投資の産物だから百年二百年は醜くとも残る。
未来をも喰っているのだ。
種村さん、見ないでよかったよ。
―― 本を読む。―― 松山巖書評集
―― 松山巖 著、2018、西田書店
なるほど、種村さんは、
不思議なもの、いかがわしいもの、
弱いもの、そして小さいものが好きだった。
だからといって、当然に、
公明正大なものが嫌い、
なんて措定はできないけれど、
種村さんは、明瞭なもの、健全なもの、
強いもの、そして大きいものが嫌いだった、
と短絡しておこう。
しかし、とてつもない物知りで、
博覧強記という言葉がぴったりなら、
大きいものだって嫌わないと思う。
>種村さん、見ないでよかったよ。
見ないでよかった、と思うのは松山巖であるが、
種村さんも、きっと、そう思うに違いない。
乱立状態、醜くとも残る、未来を喰う、
松山巖によって選ばれた言葉は、
きっと、種村さんの気持ちにも添うのだろう。
種村さんには、駄菓子屋に限らず、
例えば、ビルの1階に入ったコンビニの近くでも、
子供が遊んでいるだけで喜んでほしかった。
コンビニの近くでも、子供たちは、
小さいものを見つけるんだ。
大人が探しても見つからないものを。
いつの時代でも、子供は、
不思議で、いかがわしくて、
弱くて、そして小さいから。
どんなときも どんなときも ビルの間 窮屈そうに
落ちて行く夕陽に 焦る気持ち溶かして行こう
―― どんなときも。/槇原敬之
―― 槇原敬之 作詞作曲、1991、WEA MUSIC
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- 2019年01月28日 18:07 |
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ここまでが、僕の余計な感想と、
さらに余計なその解説。
以下は、純朴な僕の、根拠の乏しいたわごと。
つまり、僕のブログ。
>おそらく多くの人たちは
>こう思っているでしょう
>「世界」とは
>「存在するもの全体」のことだと
おそらく多くの人たちは、
そんなことは思ってはいない。
というか、ガブリエルの言葉が通じる者なら、
世界は「もの」のように存在していない。
僕たちだって、身体として存在するし、
心としても存在する。
ペンだって、「もの」のようにも存在しているし、
僕たちの心のようにも存在している。
ペンも、東京の地下鉄も、
身体的な在りかたとして観るのが、
僕たちの、ふつう、なんだ。
そして、心だって、身体的な在りかたとして観てしまう。
心だって、どこにあるのか、なんて、
脳の中を探そうとする者がいるもの。
そして 手は探る あなたと居た町 思い出せなくなる前に
声を聴かせて 笑顔を見せて 肌を伝えて
―― のうぜんかつら(リプライズ)/安藤裕子
―― 安藤裕子 作詞、安藤裕子、山本隆二 作曲、2006、cutting edge
僕は、今、「1本のペン」について、
あれこれ考えていて、
でも、ペンを手にしているわけではなく、
僕の両手は、キーボードの上に浮かべたままで、
しかし、右手は見えないペンを探り、
ほのかな冷たさや、かすかな重さを伝えている。
どこにもなくて、具体的に特定されなくて、
僕たちの心で、ペンを語るような、
そんな在りかたも、もちろん、
ペンの在りかたである。

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- 2019年01月27日 12:07 |
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>キャップはペンではないし、
>インクもペンではない。
キャップを外したところで、
ペンの数は、増えも減りもしない。
数はペンに対応するが、
ガブリエルは、数に数を対応させる愚を冒す。
>CH2もCO2もペンではない、というためには、
>「1本のペン」がなければならない。
逆に、ペンを見て、それはCH2であってペンではない、
という者がいたとして、しかし、その者には、
すでに「1本のペン」が観えている。
否定形、ってのは、肯定形を否定して作るんだ。
>ペンはペンだけではペンではないし、
>人の手とペンでペンである。
スケールは大切だ。
物理学でも、化学でも重要だが、
哲学でも、文学でも重要だ。
なにより、ふつうの生活で重要だ。
ペンは人の手とペンでペンになる。
長さ5mmのペンや、太さ50cmのペンは、
ペンに似ているけれど、ペンとは違う。
ペンではあるが、ペンではなく、
それは、常に、必ず、
ペンの形をした何かである。
>人がいなければペンはない、というためには、
>「1本のペン」がなければならないし、
ペンの形をした何かではなく、
筆記具として用いるものがペンであるのなら、
筆記する者がいなければペンはない。
人がいなければペンはない。
>世界観を持った、人がいなければならない。
「1本のペン」が存在する、
ただ、それだけのためにさえ。
手放してみたい この両手塞いだ知識
どんなに軽いと感じるだろうか
―― おとなの掟/Doughnuts Hole
―― 椎名林檎 作詞作曲、2017、Ariola Japan
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- 2019年01月26日 12:14 |
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ここまでが、昨年12月27日の、
「マルクス・ガブリエルが語る 欲望の哲学史 序章」の、
ガブリエルの講義と、僕の余計な解説。
以下は、僕の余計な感想と、さらに余計なその解説。
余計だとは思うけれど、
講義は、そのままではよく分からない。
よく分からないのに、分かったふりはしない。
自分をごまかさないために、自分で補ってみたが、
でも、ガブリエルが端折った行間に、
言葉を投げ入れることができる者なら、
ガブリエルが言いたいことなど、
すでに分かっていなければならない矛盾がある。
>って話が、理解されるためには、
>世界観がなければならない。
ある世界観を否定するためには、
それに代わる世界観がなければならない。
ある世界観と、それに代わる世界観の、
両方がなければならない。
静寂を破る独逸車と巡回車(パトカー)
警報(サイレン)… 爆音… 現実界 或る浮遊
―― 罪と罰/椎名林檎
―― 椎名林檎 作詞作曲、2000、東芝EMI
今、ガブリエルが講義をしている教室に、
遅れて入って来た者なら、
何も手に持っていないガブリエルを観るだろう。
話題が変わり、彼はもう「ノート」を手にしていない。
彼は何も持っていないし、
そして、遅れて来た者は、
彼の手を観て、「ノート」がない、
なんてことは言い出さない。
>世界と呼べるような全体はない、
>というためには、
>世界と呼べるような全体を、
>作り上げなければならない。
つまり、「ノート」がない、
というためには、まず、
彼が手に持っていた、
「ノート」を観ていなければならない。
>つまり、世界の存在と不存在は、
>矛盾しているわけではない。
「ノート」の存在と不存在は、
矛盾しているわけではない。
>二項対立させてみても、
>二律背反になるわけではない。
ある、とか、ない、とか、
対立させてみても、
ない、ためには、あらかじめ、または、同時に、
ある、でなきゃならないんだ。

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- 2019年01月24日 19:04 |
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>あるいはスケールによって
>答えは違ってくるでしょう
例えば、ガブリエルが持っている「もの」は、
数えきれないほどの炭素です、
なんて答える者はいないと思うけれど、
言いたいことは分かる。
自分のスケールを変えられない者はいる。
自分の文脈でしか話せない者はいる。
>たとえば量子的な小さいスケールでは
>ペンにさえ見えないでしょう
ペンの全体を見渡せない者はいないと思うけれど、
言いたいことは分かる。
>つまり客観的な「全体」など
>存在しないのです
ゆえに、「全体」というときには、
主観的な、という枕詞がつく。
ペンを小さな「全体」として、
「全体」とは、主観のことだ。
または、「全体」というときには、
ふつうは、という枕詞がつく。
または、人にとっての、という枕詞がつく。
あるいは、言葉による、という枕詞でもいい。
ペンを小さな「全体」とした時点で、
すでに、主観的な、ふつうの、人の言葉である。
>もし「全体性」というものが
>どこにもないのであれば…
>3,000年前のアリストテレスに始まる
>思想も 受け入れるわけにはいきません
どこにもない、って断定されても困る。
全体性は、うまくは語れないけれど、
アリストテレスに遅れて来た僕たちの、
所与として、確かにある。
でないと、ガブリエルには、
否定する対象がないことになり、
僕たちには、ガブリエルが、
何を否定したがっているのかが分からない。
「全体性」と呼ばれるものを、
一度は、両手に抱え込んだ僕たちが、
それがどんなに受け容れ難いことだったとしても、
手放すことなどできるのだろうか。
ノートは1冊だった、というためには、
2冊のノートが必要である。
どうして 歴史の上に言葉が生まれたのか
太陽 酸素 海 風 もう充分だった筈でしょう
―― 本能/椎名林檎
―― 椎名林檎 作詞作曲、1999、東芝EMI
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- 2019年01月22日 20:21 |
- 自分らしさ
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>では 質問です
>私は今 左手にいくつの「もの」を
>持っているでしょう?
>「1本のペン」と答えるならば
>なぜこれを “1つ”と
>数えられるのでしょう?
>(ガブリエルは、ペンのキャップを外した)
>“2つ”かもしれない
日本語には助数詞があるから、
ここは、NHK・Eテレの翻訳が悪い。
“1つ”が“2つ”になっても、
“1本”は“2本”にはならない。
ここは、ノートのほうがよかった。
レポート用紙を頭上に掲げて、
2つに裂いて見せればいい。
“1つ”が“2つ”になり、
「1冊のノート」は「2冊のノート」になる。
そして、「2冊のノート」を左手に持つ。
>私は今 左手にいくつの「もの」を
>持っているでしょう?
今、ガブリエルが講義をしている教室に、
遅れて入って来た者なら、
彼の左手に「2冊のノート」が存在することに、
何の疑いも持たないだろう。
そう、僕たちは、
遅れてこの世界に来たんだ。
こんな時代じゃあ手間暇掛けようが掛けなかろうが終いには一緒くた
きっと違いの分かる人は居ます そう信じて丁寧に拵えて居ましょう
―― 人生は夢だらけ/椎名林檎
―― 椎名林檎 作詞作曲、2016、2017、EMI Records Japan
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- 2019年01月20日 12:21 |
- 自分らしさ
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>おそらく多くの人たちは
>こう思っているでしょう
>「世界」とは
>「存在するもの全体」のことだと
ここでいう「世界」は、
例えば、世界地図や世界史でいう「世界」ではなく、
森羅万象、宇宙に存在する一切、
存在するものごと、現象の総体をいう。
>「私の手」 「東京の地下鉄」
>数字の「7」
「私の手」は、存在するものと言えそうだ。
ここにある、なんてふうに指し示すことができる。
対して、「東京の地下鉄」は、ちょっと怪しい。
階段も券売機も自動改札も、
車両も運転手も乗客も、
どれを指し示しても「東京の地下鉄」にはならない。
例えば、学校は、教室や体育館やプール、
先生や生徒や教科書、国語や数学や英語、
教育基本法や学校教育法、そんなものごとを、
どれだけ積み上げても学校には足りないだろう。
数字の「7」は記号、あるいは文字である。
数字と数は、似ているけれど違う。
数は、順序や量を表すための概念であり、
「7」は、ものとしては存在しない。
「東京の地下鉄」と数字の「7」は、
「存在するもの全体」では説明ができなくなり、
そうなると、「全体」はあるのかと疑いたくなる。
そうなると、「私の手」も疑わしい。
>本当にそのような
>「全体」はあるのでしょうか?
悪いけれど葡萄酒(ワイン)ならば 自分の口唇ダイレクトで
グラスよりも其の御口に 注いで戴きたいのだもの
―― 真夜中は純潔/椎名林檎
―― 椎名林檎 作詞作曲、2001、東芝EMI
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- 2019年01月19日 00:38 |
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