僕が理解している僕の世界など、
幻想にすぎない、として、
その幻想を生み出す想像力は、
僕が過去に培養したもので、
つまり、僕の現在の理解は、
僕の過去の経験からの理解でしかなく、
僕が現実を生きることは、
すなわち、僕の過去を生きることだ。
現実は、僕の、という所有格であり、
現実は、過去からの借りものである。
現実は、僕の過去が規定するが、
ただし、過去ほど不確かなものはない。

今、起こっていることも、
これから起こることも、
まだ、確かめようがあるのに、
対して、過去は確かめようがない。
おおよそ、歴史に客観性はなく、
歴史は、いつだって主観的なものだ。
未来がどこにも準備されていないように、
過去はどこにも保存されていない。
幸せ、なんて言葉を使って、
僕たちは、不幸を数え上げる。
現実、なんて言葉を使っても、現実は、
現に、実際には、僕たちの、
当てにならない記憶である。
春を想い出すも 忘れるも
遠き遠き道の 途中での事
―― 結詞/井上陽水
―― 井上陽水 作詞作曲、1976、FOR LIFE
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月31日 00:02 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
現実を生きる、なんてことに照準するのは、
妙に、うっとうしい感じがある。
現実を生きる、なんてもの言いは、
なんだか、説教くさくなる。
現実を生きる、ってのは、なぜか、
有意義、でなきゃならない気がしてくるし、
無為なことをしていると、なぜか、
現実逃避、ってことになりそうだ。
現実逃避も現実の出来事であり、
現実を生きることについて、
一日の終わりに考えるのも現実で、
何も考えないで眠るのも現実だ。
3月の末の、この忙しいときに、
現実を生きることは、なんて考えてみる。
はた目には、何の生産性もない、
無為な時間に映るのだろう。
幸せ、なんて考えるときに、
僕たちは、不幸を数え上げる。
現実を生きることは、なんて問いながら、
しかし、もう、その問いは、
すでに現実離れした問いである。
まるで僕らは エイリアンズ
禁断の実 ほおばっては 月の裏を夢見て
―― エイリアンズ/キリンジ
―― 堀込泰行 作詞作曲、2000、Warner Music Japan
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月30日 00:12 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:6
商業として考えた場合は、
消費者が望むものを与えなければならない。
誰だって、望まないものは欲しくないから。
では、例えば、現実を生きること、
なんてのを商品にするときには、
消費者が観たい世界を観せてやればいい。
こう在ってほしい、という世界を提示すればいい。
損得や、勝ち負けを判断基準にしたときには、
示されたその世界観は、まったく正しい。
売れたら勝ち、売れなかったら負け。
商品は、正しいから受け容れられるのではなく、
受け容れられたから正しくなる。
正しさは、消費される商品である。
スピリチュアル、なんてのは、そういうこと。
論証なんて面倒くさいことは誰も求めない。
エンターテインメントは悪くない。
消費者の願望を満たして、
気持ちよくさせるのは、ぜんぜん悪くない。
誰だって、欲しくないものは望まないから。
好きとか嫌いとか欲しいとか
気持いいだけの台詞でしょう
―― おとなの掟/Doughnuts Hole
―― 椎名林檎 作詞作曲、2017、Ariola Japan
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月29日 00:04 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
馬鹿みたいなことを書くけれど。
僕には、いつだって、今しかなくて、
どこに行っても、ここしかない。
今、今、今が移り変わり、
ここ、ここ、ここが入れ替わる。
いつでも今で、どこでもここだから、
例えば、クルマで走っているときは、
僕は、道路灯が移動する光景を観ている。
路面標示が移動する速さを観ている。
今、自分が移動していることを知りながら。
自分をここに止めて、自分以外をそこから動かせる。
そんな自分勝手な認知が浅ましい。

大阪市が回る速さも、地球が周る速さも、
太陽系がヘルクレス座の方向に動く速さも、
銀河系が獅子座の方向に動く速さも、
秒速いくらなのかは知らないけれど、
クルマよりもはるかに速くて、認知もできなくて、
それは、きっと、僕の視力も、想像力も、
置き去りにする速さだと思うんだ。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月27日 00:14 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:8
僕が理解している僕の世界など、
現実ではなくて、幻想にすぎない。
スピリチュアルなら、そこで、
本当の自分とか、本当の世界なんて言うけれど、
本当の自分も、本当の世界も、
もちろん、等しく、幻想にすぎない。
僕が理解している僕の世界など、
幻想にすぎない、とすれば、
他人が理解している他人の世界も、
同じく、幻想にすぎないが、
スピリチュアルなら、本当のあなたは、
なんて言い出すのだろう。

僕が僕の世界を生きることは、
僕の感受性や価値観の問題であり、
僕と他人が同じ幻想を観ることは、
僕には、ほとんど不可能であると思われる。
ゆえに、他人が他人の世界を生きることは、
僕には、論理の問題になる。
他人が他人の感受性や価値観で観る幻想を、
僕が理解できるなんて、
そんな僭越なことを、思えるほうがおかしい。
もとより、本当の自分とか、本当の世界とか、
本当のあなたは、なんて言われて、
ふらついてしまうような幻想である。
例えば、僕は、他人の自殺は肯定しない。
生きる希望を失った他人が、
自ら生命を絶つことを、僕は肯定できない。
他人の感受性や価値観は問題にしない。
他人の自殺の肯定は、
僕にとっては、他人の生命の否定だから。
僕は、他人の引きこもりも肯定しない。
他人が、自らを部屋に閉じ込めて、
出られないようにすることを、僕は肯定できない。
他人がどんな幻想を観ているのかは問題にしない。
他人の引きこもりの肯定は、
僕にとっては、他人の自由の否定だから。
しかし、そんな論理もまた、
僕の感受性や価値観の問題なのだろうか。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月25日 00:21 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
現実を生きることは、最も頭を使わない、
なんてことは、もちろん、ない。
誰だって、現実と向き合えば頭を使う。
なぜなら、現実は、想像だけでできている。
ラカンは、言葉を通じて僕たちが観ている世界を、
「想像界」と呼んだ。
対して、物そのものの世界を、
「現実界」と名づけた。
僕たちが認知している現実は、
現実ではなく、想像である。

言葉が与えられていない、物そのものなんて、
僕たちとは、結びつきが失われている。
その物を観ることができないし、
それについて考えることができない。
逆に、その物が見えていなくても、
例えば、電子が原子の周りを回っている絵が浮かべば、
原子の構造を観ることができるし、
それについて考えることができる。
僕たちは、「現実界」には接していない。
接触するには言葉を介さなければならない。
僕たちにできるのは、常に、必ず、
言語化して、想像することだけである。
言葉をつかみ取るたびに、
「現実界」との結びつきが失われて行く。
僕たちは、言葉を得ることで、
言葉によって記述できないものごとが、
まったく観えなくなってしまった。
例えば、猫には観えているのかもしれない物が。
アリガトウや Ah 愛してるじゃまだ足りないけど
せめて言わせて 「幸せです」と
―― キセキ/GReeeeN
―― GReeeeN 作詞作曲、2008、Nayutawave Records
例えば、幸せ、なんて言葉があるから、
気づけないことが。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月24日 00:03 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:12
漫画を読むと馬鹿になる、
そう思いたい人には、
そう思わせてやればいい。
理由はともかく、そう思いたいのだから。

狂人には、自分は狂っていない、
と思わせてやればいい。
自分は狂っていない、
と思いたいのが狂人である。
怠惰な人には、自分はそのままでいい、
と思わせてやればいい。
自分はそのままでいい、
と思いたいのが怠惰な人である。
無駄な時間を過ごしてしまった人には、
その時間は決して無駄ではなかった、
と思わせてやればいい。
そう思いたい、それこそが、
無駄な時間を過ごした証左である。
生きてるっていうことが何より大事だなんて
それなら僕らはなぜ夢を見続けてるの
―― 願い/琴音
―― 琴音 作詞作曲、2018、Eggs
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月21日 00:31 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
比較にならないものごとを対比させて、
僕たちは、何かと優劣をつけたがる。
例えば、小説と、例えば、漫画とか。
世の中は、なぜか、小説を持ち上げて、
漫画をこき下ろしてきたけれど、
でも、それを逆向きにしたいのではなくて、
僕なら、上げ下げ自体をしたくない。
当たりまえのことだけれど、
そもそも、小説と漫画は形式が異なる。
文章表現に対して、絵画表現を、
頭を使わないものとするのは、
なんとも絵画を見下した話で、
漫画を読むと馬鹿になる、なんてのは、
おそらくは、最初から、
漫画を馬鹿にしたもの言いだ。
>漫画を読むと馬鹿になる、
>と言う人にとって、漫画はくだらない。
>くだらないものは読まない。
>というよりも、漫画が読めない。
>少なくとも、漫画をおもしろく読めない。
>そして、読めないものは語れない。

漫画を読み慣れていない人が漫画を読むときは、
絵をほとんど見もしないで、
吹き出しの会話だけを読んで、
脚本を読むように、短い時間で読み飛ばす。
当然のことだが、漫画と脚本は形式が異なり、
小説と脚本も形式が異なっている。
文章表現に対して、絵画表現を、
頭を使わないものとするのは、その読み手が、
絵に頭を使えていないからに他ならない。
>漫画を読むと馬鹿になる、
>と言いながら、その理由について、
>考えた形跡がみられないのは、
>自らの経験に基づいて、
>語れていないということであり、しかし、
>読めないものは、経験できなくて当然である。
世の中には、文では書き表せないものがある。
漫画に描かれた表情や背景やコマ割りや、
手書きで飾られた擬音語、擬態語、オノマトペは、
文の不自由さを、軽々と飛び越える。
絵は文よりも、言葉からは自由であり、
作者は絵に様々な情報を乗せて、
漫画というかたちに留めるが、
それをどのように読み解いて、蘇らせるかは、
もっぱら読み手にかかっている。
それが読み解けない読み手には、
漫画は、薄っぺらで、くだらない。
漫画を読むと馬鹿になる、なんてのは、
読めない読み手の逆ギレである。
「誰かに嘘をつくような人に なってくれるな」 父の願いと
「傷ついたって 笑い飛ばして 傷つけるより全然いいね」 母の愛
―― 遥か/GReeeeN
―― GReeeeN 作詞作曲、2009、Nayutawave Records
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月20日 00:33 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
漫画を読むと馬鹿になる。
そのよく言われそうな理由は、
想像力が働かないから。
想像力が働かない理由は、
想像力でかたち作るよりも先に、
絵を見て、即物的な受容に陥るから。
即物的なのは、何も考えないままに、
現実離れしたプロットに運ばれるに任せて、
頭の中に意味が流れ込んでくるから。
意味が、仮想現実の後を追いかけて、
しかし、情報の整理が追いつかず、
解釈されないままの意味になるから。
そんなのが、世の中に流通しているフレーズの、
世の中に流通している理由だろう。
だから、漫画を読むと馬鹿になる。
それについて、僕は、
100%、同意するけれど、ただし、
その論理を推し進めた地点で同意する。
漫画は、本と対比したときには、
僕たちの現実のあり方に近いメディアだ。
漫画を読むと馬鹿になる、のなら、
すなわち、現実を生きればもっと馬鹿になる。

まだ、しばらくは続く。
どうでもいいことに足を取られて動けない、
それが哲学だと思っている。
どうでもよくないことなら、誰だって立ち止まる。
―― Spring ~ The Four Seasons/Antonio Lucio Vivaldi
―― Julia Fischer、Academy of St. Martin in the Fields
1959年、昭和34年の3月17日、
日本初の少年向け週刊誌、
「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊された。
講談社のマガジンは、1冊40円、表紙は3代朝潮太郎。
小学館のサンデーは、30円、長嶋茂雄。
創刊号の売上は、マガジンが20.5万部、サンデーが30万部。
やがて、68年に集英社「少年ジャンプ」、
69年に秋田書店「少年チャンピオン」の4強が揃う。
『スラムダンク』と『ドラゴンボール』を連載中のジャンプが、
95年の年始に打ち立てた記録は、驚異の653万部。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2019年03月18日 00:07 |
- 馬鹿
-
| トラックバック:0
-
| コメント:8