>幸福に生きよ!、
>ということより以上は語りえないと思われる。
>―― 草稿 1914-1916/ウィトゲンシュタイン 著
>―― ウィトゲンシュタイン全集1、奥雅博 訳、1975、大修館書店
本屋に行けば、スピリチュアルや、
宗教や、自己啓発や、哲学や、
仲が悪そうな本が、隣り合わせに並んでいるけれど、
でも、タイトルだけを見れば、仲が良さそうに見えたりもする。
例えば、幸せになりたくて、その書棚で立ち止まったとして、
そこで売られている本の多くには、感性に従って、感動を伴って、
幸せになる方法が書かれているけれど、
哲学書には、そっ気なく、語りえない、なんて語られている。

>人は何のために生きているのか、
>そんな問いには、答えなくてもいい。
例えば、人生の意味が知りたくて、その書棚で立ち止まったとして、
僕には、哲学書が教えてくれるとは思えない。
実存主義の哲学者なら、生涯をかけて、
人生の意味について考えた。
彼らが、悩み尽くして、考え抜いて出した答は、
おおよそ、人生には意味がない。
千円足らずで売られているスピの本には、
人が生まれてきた理由まで書かれているのに。
永遠なんて素気ないね ほんの仮初めが好いね
愈々(いよいよ)宴も酣(たけなわ)、本番です
―― 長く短い祭/椎名林檎、長岡亮介
―― 椎名林檎 作詞作曲、2015、EMI Records Japan
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- 2019年04月29日 00:02 |
- 物語論
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>何が幸せか、なんてのは、
>幸せ、って概念を使って、
>論理を展開した結果として、
>何を求めているのか、
>それによって答が違ってくる。
つまり、目的が先であり、
意味は後づけだ。
目的があるから意味が決まる。
逆に、意味によって、
目的が決められるわけではない。
目的が、生まれてから死ぬまでの、
生の外側にある人なら、
そこに行くことが幸せになる。
天国とか、極楽浄土とか、
目的地に向かうことが幸せを目指す。
しかし、生の外側に物語を持たない人なら、
生の内側に物語を作らなければならない。
生まれてから死ぬまでの間が、
幸福な物語でなければならない。
つまり、幸せを先送りにできない。
例えば、来世を信じるのなら、
現世の生を放棄してもいいけれど、
人生が一回こっきりなら、
二十代も三十代も一度きりで、
ひいては、今日の幸せは先送りにできない。

ジル・ドゥルーズっぽく言うと、
何を目指しているのか、
ってのは問題ではなくて、
それは、旅行の目的地みたいなもので、
それがなければ旅行にはならないけれど、
でも、それはたいしたことではない。
行き先に着くことが旅ではない。
その旅の途中で、何を考え、
どのようにふるまい、 誰と出会って、
何を得たのか、それが旅行だ。
僕たちの旅は、貧乏な旅で、
そんなに遠くにも行けないし、
行く先々で雑な扱いを受けるけれど、
それでも、僕らは旅を続けている。
旅の目的は、旅それ自体である。
人は何のために生きているのか、
そんな問いには、答えなくてもいい。
そんな引っかけ問題には、
哲学的に違和を感じて、
戸惑ってみせるのが哲学っぽい。
スピリチュアルや宗教なら、
戸惑いもなく、問いに答えてくれるのだろう。
でも、目的のために生きるのではなく、
僕なら、生きるために目的を定めよう。
プリセットされた目的はいらない。
生きてきた日々が、
生きる意味に変わればいい。
借りものゝ命がひとつ 厚かましく使い込むで返せ
さあ貪れ笑ひ飛ばすのさ 誰も通れぬ程狭き道をゆけ
―― 獣ゆく細道/椎名林檎、宮本浩次
―― 椎名林檎 作詞作曲、2018、EMI Records Japan
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- 2019年04月28日 00:06 |
- 物語論
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クズは、たぶん、
不幸なゆえにクズなのではない。
不幸になってもクズになるわけではない。
クズの望んでいる幸せがクズだから、
クズなんだと思う。
何が幸せか、なんてのは、
幸せ、って概念を使って、
論理を展開した結果として、
何を求めているのか、
それによって答が違ってくる。
幸せの意味は後づけだ。
闇雲に幸せを探してさまよい歩いても、
都合よく落ちているようなものではない。
でも、見つけようとすれば、
どこにでも、それなりの幸せはある。
例えば、幸せの青い鳥は、
手を伸せば届く、すぐ近くにいる。
それをテーゼとして立てれば、
毎日の生活を振り返っただけで、
幸せな自分に気づく。
身の周りに幸せを求めれば、
幸せは身の周りにもある。
そんなのは、当たりまえだ。
身の周りにある幸せを、
探し求めているのだから。

エッチをして、忘れることは幸せだ。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来きて
妻としたしむ
―― 一握の砂/石川啄木
他人の不幸も幸せだ。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
―― 一握の砂/石川啄木
友がみんな、自分より偉く見える、
そんな不幸さえなければ。
他人に頭を下げさせられた不幸さえなければ。
そして、青い鳥を探しに行って、
手ぶらで戻ってきた不幸さえなければ。
幸せは、青い鳥を持ち帰れなかったことへの、
苦し紛れの言い訳である。
―― 一握の砂/石川啄木 著
―― 新編 啄木歌集、久保田正文 編、1993、岩波文庫
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- 2019年04月27日 00:18 |
- 物語論
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一夜落下雨/道元、うん/槇原、
目立たない真理の尊重/ニーチェ、
盗まれた手紙/ラカンとポー、
なるほど、真実はどこにでも転がっている。
でも、どうすればいいのかな。
いちばん大切なことは、目に見えない、
そんなサン=テグジュペリのフレーズも、
僕には、きっと、知ったかぶりで嘘っぽい。
幸せとは何か、なんてことも考えないままに、
僕は、大人になって、ずいぶん経つけれど、
何が解っていて、何が解っていないのか、
僕には、それさえも解っていないみたいだ。
解っていないのに、解ったふりをしない、
僕には、きっと、それさえも難しい。
真実は一つなのか 何処にでも転がっているのかい
一体そんなものが あるんだろうか 何も解らないで 僕はいる
―― てんびんばかり/河島英五
―― 河島英五 作詞作曲、1975、京都レコード
暑苦しい、キレる、圧がすごい。
歌詞も、声も、顔も、身体も。
気違い、なんて歌っているから、
政治的にコレクトではないけれど。
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- 2019年04月26日 00:06 |
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>ぶっちゃけ、僕は、僕に幸せに生きてほしい。
なんだか他人事みたいな書きようで、
どうやら、僕は、何が幸せに生きることなのかを、
知らずに書いているらしい。
何らかの条件を満たすことで、
人が幸せになれるのなら、
幸せは、客観的な指標を備えるが、
哲学には、外的な条件は挙げられない。
哲学は、幸せ、について考えるけれど、
幸せになる方法は教えてくれない。
幸せになる方法を探し求めるのなら、
スピリチュアルか、宗教に訊けばいい。
哲学には、幸せになる条件は見つからない。
哲学には、幸せになることの指標がない。
哲学には、幸せになる方法は探せない。
哲学には、幸せになることは手に余る。
哲学は、幸せに生きよ、とは言うけれど、
それ以上は、何も言ってくれない。
対して、哲学が黙り込む地点から、
スピリチュアルや宗教がしゃべり始める。
幸福に生きよ!、
ということより以上は語りえないと思われる。
―― 草稿 1914-1916/ウィトゲンシュタイン 著
―― ウィトゲンシュタイン全集1、奥雅博 訳、1975、大修館書店
何が幸せかはさて置いて、
僕は、僕に幸せに生きてほしい。
何が幸せかは知らないけれど、
僕には、確かに、幸福と不幸がある。
幸福に生きろ、生きる、生きられる。
くじるら くじる えろらる らなる らな なや
―― 空飛ぶくじら/大瀧詠一
―― 江戸門弾鉄(松本隆) 作詞、多羅尾伴内(大瀧詠一) 作曲、1972、Bellwood
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- 2019年04月25日 00:18 |
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>しかし、幸せな結末を迎える、ってのは逆説的で、
>幸せな結末を迎えるまでは、
>僕は幸せであってはならないことになる。
自分で書いていて、自分でびっくりする。
なんてことだ、ハッピーエンドのハッピーはエンドだけで、
始まりはアンハッピーで、途中もアンハッピーのリフレインだ。
そして、なんてことだ、ハッピーエンドの後も人生は続く。
時間は、ハッピーエンドを置き去りにして流れ続ける。
つまり、エンドはエンドではなく、ハッピーで終わらない。
ハッピーエンドってのは、いわば、
アンハッピースタートの言い換えで、
そのリアルは、ひたすら、アンハッピーコンティニューであり、
なんてことだ、ハッピーエンドなんて、トリックみたいなものだ。

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- 2019年04月24日 00:03 |
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ぶっちゃけ、僕は、僕に幸せに生きてほしい。
いわゆる、ハッピーエンドを生きてほしい。
ハッピーエンドってのは、主人公の僕をはじめ、
キャストのみんなが幸せな結末を迎えることをいう。
誰かの不幸の上に成り立つような、
ビターなエンディングは避けたいと思う。
しかし、幸せな結末を迎える、ってのは逆説的で、
幸せな結末を迎えるまでは、
僕は幸せであってはならないことになる。
困難を乗り越えて、逆境に打ち克って、
幸せな未来が待ち受ける地点に到達して、
その到達点をハッピーエンドと呼んでいる。
ドラマツルギーっぽく言えば、
世界は劇場で、すべての男女は演技者であり、
人は一生のうちに多くの役割を演じるが、
ハッピーエンドは、不幸せのときが出番であり、
幸せになれば、それは退場のときである。
例えば、シンデレラがハッピーエンドの物語なら、
その後日談は、必ず、再び、
不幸なシンデレラから始まるだろう。
全世界が一つの舞台、そこでは男女を問わぬ、人間はすべて役者に過ぎない。
それぞれ出があり、引込みあり、しかも一人一人が生涯に色々役を演じ分けるのだ。
―― お気に召すまま/シェイクスピア 著
―― 福田恒存 訳、1981、新潮文庫
―― 素晴らしき哉、人生!、予告編/フランク・キャプラ 監督
―― ジェームズ・ステュアート、ドナ・リード 出演、1946、Liberty Films
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- 2019年04月23日 00:03 |
- 物語論
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本質的には、価値に差はないが、
それらに差を見出すとしたなら、
僕たちは、難解な道元をありがたく拝読して、
平易な槇原敬之は、嘲笑を浮かべて聞き流す。
流行りの歌なんかに、道元と、
同権のものなど対抗しているはずがない。

大事なことはいつも 平凡な場所にうずくまって
僕らに気づかれるのを じっと待ってる
―― うん/槇原敬之
―― 槇原敬之 作詞作曲、1996、Warner Music Japan
でも、それを言われると、ちょっと困るんだ。
そんなのはよく言われるし、もう、使い古されていて、
もはや、そっちのほうがスタンダードになっているけれど、
僕には、どうしたらいいのか分からない。
どうすればいいのかな、槇原。
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- 2019年04月19日 00:02 |
- 馬鹿
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