あなたがたを襲った試練で、 人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、 試練と共に、それに耐えられるよう、 逃れる道をも備えていてくださいます。 ―― コリントの信徒への手紙一、10章、13節、新共同訳 なんてのを、震災のときに聞いて、 僕は、ただひたすらに怒っていた。 どこかに書かれていることや、 他人の台詞を繰り返しているだけのとき、 言葉は発せられたとしても、 そんなのは、言葉ではない。 試練、って言葉を選ぶと、 そのフレーズがまとめて出力されるような、 そんな思考停止は、決して言葉ではない。 川崎市のカリタス小学校は、 市内で唯一のカトリック校で、 だから、僕が聞きたくないフレーズは、 また何回も、繰り返されるのだろうか。 それは、広島でも長崎でも、アウシュヴィッツでも、 殺す側でも、殺される側でも、 何千回も、何万回も、 お約束のようにリピートされてきたのだろうが、 せめて黙っていようとは思わないのか。
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2019年05月31日 00:02 |
神
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聖書には、奴隷に関する記述が少なく、 奴隷に関して特筆すべき事項はない。 しかし、奴隷を批判する記述がないことは、 大いに特筆に値する。 大切なことは、そんなふうに、目に見えない。 The Chain is Slave’s Boast “Slaves too familiar with the circumstances, they begin to boast to one another of the chain that connects the foot of his surprise. On the contrary they begin to laugh at free people who are not in chains. But the chain that connects the slaves is actually a chain of the same one only. And a slave is only a slave. Slaves of the past are not ceded the freedom of spirit, they were trying to free himself. But modern slaves become slaves of their own, they do not realize it. On the contrary they are proud to be a slave.” ―― Amiri Baraka(LeRoi Jones) 奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する 奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、 驚いたことに、互いに、 自分の足を繋いでいる鎖の自慢を始める。 それどころか、彼らは、 鎖に繋がれていない自由な人たちを嘲笑し始める。 しかし、それぞれの奴隷を繋ぐ自慢の鎖は、 実は、同様の、ただの鎖だ。 そして、奴隷は、ただの奴隷に過ぎない。 かつての奴隷は、精神の自由まで、 譲り渡すことはなかった。 彼らは自分自身を自由にしようとしていた。 しかし、現代の奴隷は、自ら進んで奴隷になり、 彼らはそれに気づいていない。 それどころか、彼らは奴隷であることに、 誇りさえ見い出している。 ―― アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ) VIDEO うちの子犬はとても臆病で 一人では街を歩けない 首輪をつけると とても自由だ 僕を神様だと思っているんだろう ―― てんびんばかり/河島英五 ―― 河島英五 作詞作曲、1975、京都レコード 奴隷の服従意欲が満たされるから、 支配服従関係が成立する。 奴隷が、奴隷になりたがっているから、 支配者は、支配者でいられるんだ。 エノラ・ゲイの乗務員は12名、 選び抜かれた将校たち。 そして、もう1人乗組員がいて、 George Zablecka、カトリックの神父だ。 首輪をつけると、乗務員は自由だ。 ―― Amiri Baraka(formerly: Everett LeRoi Jones) ―― invoked the poetry during a 1968 Harlem speech ―― http://www.mofa.go.jp/policy/un/remark0908.html
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2019年05月29日 00:07 |
自由
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教会では、妻たちは黙っていなさい。 彼らは語ることを許されていません。 律法も言うように、服従しなさい。 もし、何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。 教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。 ―― コリント人への手紙第一、14章34-35節、新改訳聖書 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。 ただ静かにしていなさい。 ―― テモテへの手紙第一、2章12節、新改訳聖書 また、男は女のために造られたのではなく、 女が男のために造られたのだからです。 ―― コリント人への手紙第一、11章9節、新改訳聖書 トマス・アクィナスは、女は神の失敗作だと結論したらしい。 それ以前も、それ以後も、女を人として扱うかどうかで論争が続く。 ファッキンな話だけれど、今だってたいして変わらない。 女性差別をなくそうとするのは女だ。 そして、驚いたことに、それを妨げるのも女だ。 それは、鎖に繋がれた奴隷の女である。 なぜなら、奴隷は、自分を縛る鎖を自慢する。 それどころか、奴隷は、自由を拒み、 鎖に繋がれていない自由な女たちを嘲笑する。 そして、奴隷であることに、誇りさえ見い出している。 VIDEO 女はいつでも威張らせておくけど 本当はどんな目で 男を見つめているんだろう ―― てんびんばかり/河島英五 ―― 河島英五 作詞作曲、1975、京都レコード
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2019年05月28日 00:06 |
自由
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>ここで述べられているのは、 >私とは何か、ってこと。 なんて、あっさり書いたけれど、 これは、驚くべきことだ。 私とは何か、なんて問いに、 さらっと答えてしまうなんて。 思惟する私の、心とは何か、 私の心はどこにあるのか、 問える人も、そうそういないのに、 答えられる人なら、なおのこと。 VIDEO This self is the only thing I love To hear, to smell, to see, to touch is irreplaceableness ―― 鶏と蛇と豚/椎名林檎 ―― 椎名林檎 作詞作曲、2019、EMI Records Japan 僕とは別に世の中があるのではなく、 世の中とは別に僕があるのではないが、 でも、とてもそんなふうには思えない。 無数にある世の中の矛盾のうち、 いくつかの矛盾が僕に同期する。 それは、偶然としか言いようがないけれど。 そのいくつかの矛盾によって、 心、なんてものを生み出した僕は、 交流信号の同期を繰り返すうちに、 指向性を集中させて、感度を上げて、 アンテナをぎんぎんに尖らせて、 厚かましくも、世界で唯一の人になって行く。 おそらく、最初から、僕と世界は、 交換不可能な、ずぶずぶの関係なんて、 目指していたわけではないだろう。 替えがきかなくなってから、僕は、 かけがえのない僕と世界に気づく。 僕と世界は、事後的にしか語り得ない。 僕が、世界で唯一の人であるという転倒は、 その僕を生み出した世界も唯一の世界であり、 互いの偶有性は、単独性に引き上がる。 あるいは、僕が世界で唯一の人であるのなら、 その僕が観る世界も、一度きり、 最初で最後の、唯一の世界である。 僕の世界は、そんなふうに、 事実に基づいたフィクションであり、 僕の虚構は、今日も、自ら展開し続ける。 虚構が、虚構に、寄与を続ける。
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2019年05月27日 00:06 |
物語論
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風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です ここで述べられているのは、 私とは何か、ってこと。 私という現象は、他者と共に明滅する。 因果とは、現象を成立させるものごと=原因と、 成立させられた現象=結果である。 交流とは、因果に掛ければ、 異なる人々や、異なるものごとが、 互いに行き交い、入り混じること。 また、電燈に掛ければ、 他者との交流信号の同期だ。 私という現象が明滅するのは、 世界・社会・世の中との交流による因果である。 私という現象が、社会現象であり、 社会現象というのは、私のことである。 私=世界・社会・世の中であり、 世界・社会・世の中の矛盾は、 私の矛盾として、自らを現している。 VIDEO 静寂を破る独逸車と巡回車 警報 爆音 現実界 或る浮遊 ―― 罪と罰/椎名林檎 ―― 椎名林檎 作詞作曲、2000、東芝EMI (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの) ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ そのとほりの心象スケツチです 明滅する陰と光の、ひと区切り。 心は、そこに、自らを現している。 ―― 宮沢賢治詩集/宮沢賢治 著 ―― 谷川徹三 編、1979、岩波文庫
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2019年05月26日 00:07 |
物語論
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>作られた物語は作る物語を作るべく作られたのであり、 >作られた物語というそのことが、 >否定せられるべき物語であることを含んでいるのである。 >しかし作られた物語なくして作る物語というものがあるのでなく、 >作る物語はまた作られた物語として作る物語を作って行く。 作られた物語というそのことが、 否定される物語であることを含んでいるのだが、 つまり、新しい物語が作られることによって、 物語が否定されて古くなる、ってことだろう。 ただし、物語は、オートマティックに古くなる、ってものではない。 一般概念の外に出るというのは、 一般概念がなくなることではない、 かえって深くその底に徹底することである、 ―― 場所/西田幾多郎 古い物語は、古くなるために、却って深く掘り下げられる。 古い物語と新しい物語が連続していないのなら、 古い物語は古くならないし、新しい物語は新しくならない。 別の物語が並存するだけである。 古い物語には、新しい物語の可能性を、つまり、 自らが否定される可能性を、自ら含んでいなければならない。 だから、物語がうまく作れないときがある。 例えば、広島、長崎と敗戦とその後、 震災とメルトダウンとその後、 物語が、いきなり終わって古くなり、 物語が、いきなり始まって新しくなるとき。 例えば、大切な人を亡くしたときには、 連続は、切断により定義される。 新しい物語が、古い物語を打ち破らないとき、 新しい物語によって、古い物語にされないとき、 古い物語によって、新しい物語になれないとき。 へし折られた物語の底に、徹底されないときがある。 そのとき、古い物語は、過去にはなれない。 VIDEO 不幸だった訳がわかっている今は 損しただなんて まるでおもわない ―― 目抜き通り/椎名林檎、トータス松本 ―― 椎名林檎 作詞作曲、2017、EMI Records Japan ―― 西田幾多郎哲学論集1 場所・私と汝 他6篇/西田幾多郎 著 ―― 上田閑照 編、1987、岩波文庫
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2019年05月24日 00:01 |
物語論
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