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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 16/39


承認から自覚へ。そして責任へ

他者からの承認を期待することは、
それが満たされないと、
被害者意識や攻撃性に転じてしまう。
それならば、他者からの承認を期待するのではなく、
当事者としての自覚を持つこと。
自分たちをマイノリティや
社会的弱者と呼べるとは思わないが、
それでも、非正規男性(弱者男性)としての
当事者性を自覚していくこと。
承認から自覚へ。そして責任へ。
そうした意識覚醒が必要ではないか。

非正規的で「弱者」的な男性たちには、
もしかしたら、男性特権に守られた
覇権的な「男らしさ」とは別の価値観
――たとえば成果主義や能力主義や
優生思想や家父長制などとは別の価値観、
オルタナティヴでラディカルな価値観――
を見出すというチャンス=機縁が
与えられているかもしれないのだ
(もちろんそうした著作や思想はすでに様々にあるが、
それらを具体的に点検していくことは、
別の場で行おうと思う)。

もはや、そういうことを信じていいのではないか。
いや、「私たち」はそう信じよう。

誰からも愛されず、承認されず、金もなく、
無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、
もしもそれでも幸福に正しく
――誰かを恨んだり
攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――
生きられるなら、それはそのままに
革命的な実践そのものになりうるだろう。
後続する男性たちの光となり、
勇気となりうるだろう。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    愛も、承認も、金もなく、無知で無能だが、
    覇権的な男らしさに代わる価値観を、
    見出すチャンスが与えられている。

    パラダイムをひっくり返して、
    一発逆転を目指せということか。
    オルタナティヴ過ぎる、ラディカル過ぎる。

    選択肢が、絶望的に貧し過ぎる。



    >異性愛の恋愛によって救われたいとか、
    >有名人になって一発逆転しなきゃとか、
    >ネトウヨやインセルや

    >アンチフェミニズムの闘士に闇落ちするとか、
    >それらの貧しい選択肢しかない、と感じられてしまうこと。
    見事な伏線回収であり、貧しい選択肢に、

    実現不可能な希望が加わっただけと思われる。



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  1. 2022年05月31日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 15/39


しかし、問いはすでに、たんなる個人的で
実存的な問題の閾を越えて、
「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が
自分たちにとっての新しい生の思想をどうつかむか、
という次元にある。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    自分たちにとっての新しい生の思想なら、
    自分たち以外にとっては、差し当たり、
    不必要な生の思想になるのだろう。

    不必要な概念から得られるものは、
    不必要な概念だけになりそうだ。
    その思想は、真偽も確かめられないような、

    好きか嫌いかくらいの次元にある。



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    だから、自分たち以外にとっても、
    新しい生の思想でなきゃならない。
    個人的で実存的な問題の閾を越えなきゃならない。

    それは、弱者を自認しているうちはできない。
    強くならなければ、入り口にも立てない。
    思想の世界に分け入って行くことは、

    無知で無能では、絶対にできないもの。



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  1. 2022年05月30日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 14/39


たとえば私は2016年に
『非モテの品格――男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)
という本を出したが、
この本の議論はネトウヨやミソジニストと紙一重ではないか、
という感想をいくつかもらったことがある。

一読してもらえればわかるが、確かに、
私の中には女性憎悪と紙一重の女性恐怖のようなものがある。
そのことは否定しえない。
しかし、非モテからインセルへと闇落ちしかねない人間の中にすら
なお残っている尊厳を、何らかの形で、
脱暴力的かつ反差別的なものとして積極的に言葉にしてみたい、
という気持ちが私にはあった。

たとえば私は『非モテの品格』の中で、
依存症研究などを参照し、
男の弱さとは自分の弱さを認められない弱さではないか、と論じた。
自分の弱さ(無知や無力)を受容し、
そんな自分を肯定し、自己尊重していくこと。

その点では、地位も権力もあって
己の特権に無自覚でいられる男性たちよりも、
弱者男性たちのほうがまだ「救い」(解放)に近いのではないか。

このような言い方をすれば、やはり、
抽象的な理想論に聞こえるかもしれない。
しかし、問いはすでに、たんなる個人的で
実存的な問題の閾を越えて、
「非正規的な男性たち」や「弱者男性たち」が
自分たちにとっての新しい生の思想をどうつかむか、
という次元にある。
私はそう考えている。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    インセル、闇落ち、そんな術語で説明されても、
    たぶん、ほとんどの女子には解らないし、
    なにより、モテ/非モテのコンテクストで、
    自分語りをされても困るんだ。

    >脱暴力的かつ反差別的なものとして積極的に言葉にしてみたい、
    ってのは、おそらく、書き言葉のことだろう?
    だったら、コミュニケーションの形式が、
    まるっきり、根っこから違っている。

    言葉づかいも、思考の方法も、
    対面フォーマットでなきゃ双方向性が生まれない。
    話し言葉で、普段づかいの語彙で、
    言葉にしなきゃ伝わらないことがある。

    目の前に、好きな女子がいるときに、
    非モテの原因究明をしても、何も始まらない。
    それよりも、会話が成り立てば、
    難しいことはいらない気がする。

    積極的に言葉にしてみたい気持ちだけで。



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  1. 2022年05月29日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 13/39


「男もつらい」ではなく「男がつらい」から始めよう

男性の「つらさ」ということがいわれる。

では、多数派男性の「つらさ」とは何だろうか。
どのような言い方をすれば「つらさ」を語りうるのか。
これもまた極めて語りづらい、
繊細な領域の事柄であるだろう。

たとえば「男もつらい」
「男だってつらいんだ」と言ってしまえば、
これは女性や性的マイノリティとの比較において
「女性や性的マイノリティもつらいだろうが、
男性もつらいんだ」という
優越を競うようなニュアンスになってしまう。
リアクションになってしまう。

他方で「男はつらい」という言い方をすると、
それは「男性一般はつらい」という
被害者性を強調した意味になって、
主語(私たち=男たち)が
あまりにも大きくなりすぎてしまう。

これらに対して、「男がつらい」という言い方にすれば、
「(この私にとって)男がつらい」
という意味になるのではないか。
すなわち、他者との比較や優越の話ではなく、
「この私」にとって「男らしさ」という
正規とされる規範性それ自体がつらいし、
抑圧的なのだ、というニュアンスになるのではないか。

男がつらい。多数派の男性たちであっても、
ひとまず、そう言っていい。声に出していい。

いずれにしても「男がつらい」のその「つらさ」には、
さまざまな複雑な要因が絡まりあっているはずだろう。
重要なのはそれを男性たちが内側から
――もちろんマイノリティたちの実践から学ぶこと、
他者たちの声に耳をすませながら
そうするのは望ましいことだ――
解きほぐしていくことである。

自分の「つらさ」の原因を作り出す「敵」がどこかにいる、
という話にしてしまえば、
それは「陰謀論としてのアンチフェミニズム」
に行き着いてしまうだろう。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    >男がつらい。多数派の男性たちであっても、
    >ひとまず、そう言っていい。声に出していい。

    男がつらいことは、男が声に出して言っていい。
    なんてふうに、循環させるよりも、

    つらい、だけでいい。
    男が、っていう中途半端な全称を盛りつけない。

    なぜ男がつらいのか、なんて理由を探しても、
    おおよそ、そのつらさは解消しない。

    つらさを感じている、ってことを与件として、
    どうやって、今のこのつらさから逃れるかを考える。

    全称を盛るのなら、人が生きることはつらい。
    それなら同意するけれど、しかし、なぜ、今さら、

    そんな当たりまえのことで嘆いているのか。



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  1. 2022年05月28日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 12/39


半ば制度の問題、半ば実存の問題でもある難しさ

ここまで「弱者男性」という言葉を使ってきたが、
この言葉はどうしても女性や性的マイノリティとの
コンフリクトを前提としてしまう
(そして女性に対する憎悪や嫌悪を増幅してしまう)から、
異なる概念がいるのではないか、と述べてきた。
それをここでは、「非正規的なマジョリティ男性」と呼んでおく。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    「非正規的なマジョリティ男性」とかなんとか、
    そんなふうに小難しく自称できないのが、
    「弱者男性」と呼ばれる男たちであり、

    どうしても女性や性的マイノリティとぶつかって、
    争って、憎んで、嫌ってしまうのが、
    弱者男性の弱者男性たる所以(ゆえん)だろう。

    杉田俊介による弱者男性論は、
    強者男性によって仕立てられた、
    強者男性に向けて書かれた弱者男性論であり、

    それを読んで、くだらない思いつきを、
    ぐだぐだ並べている僕のブログなんてのは、
    弱者男性から遠く離れた場所にいて、

    薄笑いを浮かべながら、気取った文章表現を、
    技術的に弄(もてあそ)んでいるに過ぎない。
    弱者男性との共感を絶って自足するような、

    弱者男性を読み手から排除したものである。



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    間違いだらけの 些細な隙間で くだらない話を くたばるまで
    正しくありたい あれない 寂しさが 何を育んだでしょう

    ―― まちがいさがし/菅田将暉
    ―― 米津玄師 作詞作曲、2019、Epic Records Japan



    こんな詞で、こんな曲で、間違いだらけで、
    正しくありたい、なんて歌うのなら、
    間違いだらけなわけがないし、

    正しくないわけでもなくなっているだろう。



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  1. 2022年05月27日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 11/39


半ば制度の問題、半ば実存の問題でもある難しさ

ここまで「弱者男性」という言葉を使ってきたが、
この言葉はどうしても女性や性的マイノリティとの
コンフリクトを前提としてしまう
(そして女性に対する憎悪や嫌悪を増幅してしまう)から、
異なる概念がいるのではないか、と述べてきた。
それをここでは、「非正規的なマジョリティ男性」と呼んでおく。

すなわち、正規の雇用、正規の家族像、正規の人生、
あるいは正規とされる「男らしさ」、
覇権的な男性性、等々から脱落し逸脱した
多数派の男性たちのことだ。

たとえばこれを社会的に強いか弱いか
(特権性があるかないか)ではなく、
運不運や幸不幸の問題である、と言ってしまうと、
それはあくまでも個人の問題、
自己責任の問題になってしまう。
金持ちのイケメンでも不幸な奴はいるし、
幸福な貧者もいるだろう、という話になってしまう。

しかし、特権集団としての多数派の男性たちの中にも、
幾つかのレイヤーがあり、
様々な形で正規性から脱落した男性たち
――男性学では従属的な男性とか、
周縁的な立場の男性たちと呼ばれてきた――は存在する。
社会的に見えにくい、あいまいな、
グレーな領域の存在であっても。

それは半ばまでは制度や社会の問題であると言えるし、
半ばまではその人本人に固有の問題、
実存の問題であるかもしれない。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    >すなわち、正規の雇用、正規の家族像、正規の人生、
    >あるいは正規とされる「男らしさ」、
    >覇権的な男性性、等々から脱落し逸脱した
    >多数派の男性たちのことだ。

    弱者男性・非正規的男性にならないための努力、
    ってことを考えるなら、それは、
    正規から脱落・逸脱しないための努力、
    って言い換えることができる。

    なにゆえにみんな同じなのかは知らないが、
    その一員になって、同じような男たちの中に埋もれて、
    自分を埋没させたまま、脱落・逸脱させないための努力は、
    なんだか、意義を感じられないけれど、

    >必死に「踏みとどまっている」男性たちの日々の努力は
    >――比較や優越を付けることなく――
    >もっと肯定され、尊重されていいことに思える。
    普通であること、取るに足らないこと、ありふれていること、

    例えば、ありきたりな僕の、この変哲のなさも、
    もっと肯定され、尊重されていいのは同じだろう。
    弱者男性が、半ばまでは制度や社会の問題であり、
    半ばまではその人本人に固有の問題、

    実存の問題であると言うのなら、
    それだって、例えば、僕も同じだろう。



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  1. 2022年05月25日 00:00 |
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日本の被差別階級♪/弱者男性論♪ ―― (`・ω・´)キリッ 10/39


「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力が必要

ただし、ここで「肯定され、尊重されるべき」と言うのは、
異性や社会からの承認を求めることであるよりも前に、
「自分(たち)」の力によって行うべきことである、
と私は(現時点では)考える。

男性学は女性学やフェミニズムを受けての学問、
メンズリブはウーマンリブを受けての
生活改善運動という面が強かったが、
弱者男性論もまたリアクションとして語られてきた面がある。
しかし、弱者男性論もまたリアクションではなく、
積極的なアクションとして再設定すべきではないか。

つまり「異性からの承認待ち」ではなく、
「自分たちで自分たちを肯定する」という
自己肯定の力がもっとあっていいのではないか。
そのためには、SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、
ゲーム感覚で他者を叩くことから、
自分たちの日常を解放する必要がある。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    自分たちで自分たちを肯定する、
    自分たちで肯定感を与え合う。
    なるほど、弱者男性たちによる相互承認でも、
    解決に向かえるのかもしれない。
    自分に似た者たちに対して、肯定感が持てるのなら。

    キモいとか、コミュ障とか、陰キャとか、非モテとか、
    まとめて、まとめられて、弱者とか、
    そんなのは、自分たちを含めて、
    自分たちを超えた大きさで、
    がちがちに決められている否定感だ。

    そんな世の中は間違いだとしても、
    間違いがまかり通っているのなら、
    正しいことを知っていても解決しない。
    間違いと知っていても同じこと。
    だから、正しいことを言わないでくれ。

    >SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、
    >ゲーム感覚で他者を叩くことから、
    解決に向かうなんて、誰も信じてはいない。
    嘘だと感じながらも他者を叩くのは、
    正しいことを知っていても解決しないから。

    嘘だと知っていても同じこと。



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  1. 2022年05月24日 00:00 |
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日本の被差別階級♪/弱者男性論♪ ―― (`・ω・´)キリッ 9/39


反差別的で脱暴力的な「弱者男性」はあり得るか?

他方で、こうも考える。
ここには、どうしても、いったん、
「弱者男性」とは異なる概念が必要なのではないだろうか。
「弱者」という言葉が、すでに、
アンチフェミニズムやアンチリベラルを
強く含意してしまうからである。

アンチフェミニズムやアンチリベラルへと向かう欲望を切断して
(「あっちが批判してきたから言い返しているだけだ」
という被害者意識を断ち切って)、
「弱者男性」の問題を再定義できないだろうか。

もちろん「弱者男性」たちが主にネット上で
集団的な攻撃性を発揮してきた、
という文脈や歴史はすでに消し去ることができないとしても、
そうした攻撃性から身を引き剥がそうとする当事者性を帯びた
「弱者男性」の概念が再構築されてもいいだろう。

すなわち、ミソジニストやヘイターやインセルにならないような、
反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、
どういったものだろうか。
日々のつらさや戸惑いや取り乱し、
あるいは足元の問い直しとともにある「弱者男性」たち
――これがたんなる抽象論だとは思わない。
私のまわりの同年代の男性たちや、
非常勤講師の授業でであった学生さんたちの中にも、
そういうタイプの男性たちがたくさんいると感じるから。

色々な幸運に恵まれて
かろうじて生きてこれた私のような人間からすると、
色々と過酷で厳しい状況にあっても、
なんとか闇落ちせずに
必死に「踏みとどまっている」男性たちの日々の努力は
――比較や優越を付けることなく――
もっと肯定され、尊重されていいことに思える。
非暴力的で反差別的であろうと努力していること、
それは立派でまっとうなことなんだ、と。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    「弱者男性」とは異なる概念が必要になるのは、
    もとより、「弱者男性」だから、ではないのか。
    強者男性なら、そもそも、その問題を共有さえしないし、
    非暴力的で、反差別的であることを、努力なんて呼ばない。

    その時代で、その社会で、その共同体で、何でもいい、
    知力や、体力や、コミュ力や、容姿や、何でもいい、
    優劣があって、序列があって、人としての幸不幸があり、
    劣位に置かれて、不幸を感じているのが弱者男性だ。

    不幸を感じながら、屈託とうまくつき合うための概念。
    屈託を抱えながら、不幸を巧みに飼い殺すための定義。
    ただでさえ弱くて、至らなくて、生きづらいのに、
    弱者男性の概念の再構築、弱者男性の問題の再定義、

    そんな困難な課題まで与えられたなら、
    背負う十字架が、また一つ増えたような気がする。



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    誰かやさしくわたしの 肩を抱いてくれたら
    どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう

    ―― 雨の街を/森恵
    ―― 荒井由実 作詞作曲、1973、EXPRESS



    求められているのは、抽象論ではなくて、
    日曜日よりの使者、或いは、肩を抱いてくれる誰か。



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  1. 2022年05月23日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 8/39


貧しい選択肢しかない、と感じられてしまう状況

これもしばしば指摘されるように、
「弱者男性」と言っても、
発達障害や精神疾患の傾向のある人や、
「軽度」の知的ハンディのある人や、
虐待やイジメの被害者など、
様々な問題が絡み合っているし、
グレーゾーンの人もたくさんいるだろう。

それに対して、「ちゃんとした理由があるから
あなたはマイノリティ男性、
それ以外は男性特権に居直った無自覚な男性たち」と
わかりやすく線引きすることができるだろうか。
たとえば障害者介護の経験から私が学んだのは、
個人や実存のレベルで考えるかぎり、
比較や優越はもとより、
そもそも安易に他者を線引きするべきではない、
ということだ。
曖昧な領域にはっきりと線を引くこと自体が暴力であり、
支配になりうるから。

本当にもうダメだと思って、惨めで、むなしく、悲しく、
生まれてこなければよかったとしか感じられなくなったときに、
藁をもつかもうとして手を伸ばすと、
異性愛の恋愛によって救われたいとか、
有名人になって一発逆転しなきゃとか、
ネトウヨやインセルや
アンチフェミニズムの闘士に闇落ちするとか、
それらの貧しい選択肢しかない、と感じられてしまうこと。

そのことがやはりあらためて、
それそのものとして問われていいのではないか。
そうした「弱者男性」たちの暗黒領域に
光を差し込ませる言葉(思想)が必要であり、
多様な実践が必要なのではないか。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    もしも、自ら、そんな込み入った理屈を述べる弱者がいるなら、
    それは、弱者なのか、何なのか。
    分かりやすく、線を引きたがるのが弱者ってものだろう。

    誰もが強者を指向している、なんて誰に言い切れる?
    そもそも、安易に他者の暗黒領域に、
    光を差し込ませること自体が暴力で、支配にならないか?

    弱さを指向する者はいない、なんて誰に言い切れる?



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    このまま どこか遠く 連れてってくれないか
    君は 君こそは 日曜日よりの使者

    ―― 日曜日よりの使者/Goose house
    ―― 甲本ヒロト 作詞作曲、2004、UNIVERSAL SIGMA



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  1. 2022年05月22日 00:00 |
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日本の被差別階級/弱者男性論 ―― (`・ω・´)キリッ 7/39


惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある

とはいえ、ここでいわれる「弱者男性」とは、
必ずしも社会的弱者やマイノリティとイコールではないだろう。
後述するように、
もう少し繊細な語り方によってしか取り出しえない
実存/制度・構造のはざまの領域がある。

救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、
光の当たらない人生がある、ということ。
そのことをせめてわかってほしい。
「多数派の男性はすべて等しく強者」
という乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。
誰々よりマシ、誰々に比べれば優遇されている、
という優越や比較で語らないでほしい。
不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。
そうしたささやかな願いが根本にはあるのだろう。

あらかじめいえば、私は、そうした根本の声は
絶対的に肯定されるべきである、と考える
(ただし、後述するように、
それを「異性にわかってほしい」という
承認論によって解決しようとするべきではない、
とも考える)。

「強者」とされるからそれに対抗して
「弱者」という言葉が選択されるが、
そもそも本質はそこにはないのではないか。
誰かとの比較や優越によって
強い/弱いということではなく、
生存そのものとして、惨めで、尊厳を剥奪され、
どうしようもない人生があるということ。
その事実すらも否定されたら、あとはもう――。

本当は「男性」という属性すら
どうでもいいのかもしれないが、
男性というマジョリティ性から
脱け出すこともできないのである。

「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」
…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?

―― 杉田俊介、2021/04/27、文春オンライン



    居酒屋で、だらだら飲んで、
    酔いが回って、こんな会話になったりする。
    >せめてわかってほしい。
    >乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。
    >優越や比較で語らないでほしい。
    >不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。

    >誰かとの比較や優越によって
    >強い/弱いということではなく、
    >生存そのものとして、惨めで、尊厳を剥奪され、
    >どうしようもない人生があるということ。
    ありふれた不幸でも、あまりなさそうな不幸でも、
    不幸なら、多くのどうにもならないことを含んでいる。

    人生の不都合を回避すること、
    不具合を正して行くこと、そんなことも、
    どうにかなることの中で、できたり、
    どうにもならないことの中で、できなかったりする。
    こんな主張は、何かを言っているわけではないから、
    優しい人なら、ハイボールを勧めながら、当たり障りのない、

    何も言っていないようなフレーズで、申し訳なさそうに、
    はぐらかすように、励ましてくれると思う。



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    何が起こっても変じゃない そんな時代さ覚悟はできてる
    よろこびに触れたくて明日へ 僕を走らせる「es」

    ―― 【es】~ Theme of es ~/Mr.Children
    ―― 桜井和寿 作詞作曲、1995、TOY'S FACTORY



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  1. 2022年05月21日 00:00 |
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