老荘に、「樸(あらき)」って喩えがある。
「樸」は、人為が加わっていない、
切り出したばかりの木。
本来の素朴さを備えている「樸」には、
生来の力がある、という。
虚飾を排して、ありのままでいい、
なんて端折りたくなるけれど、
さらに、荘子は、未開の人たちに、
「素樸(そぼく)」という言葉を当てている。
自然に帰れ、ということか。
ルソーのそれなら、
帰れるものなら、帰ってみろ、
くらいの意味だから、ぜんぜん違うけれど、
そのぜんぜん違う意味において、
僕は、ルソーに同意する。
意図して素朴に帰った素朴なんて、
どこが素朴なのだろう。
ありのままでいい、
なんて思えないことが、
ありのままのときもある。
僕たちの便利さが、
どんなに狂った便利さでも、
一度は手に入れた便利さなら、
自分から切り離して、
否定することはできない。
僕の「樸」は、素朴ではないから、
No ってのは、Yes のことで、
って考えている。
素朴、なんて文字列を、
ネットに書き込んでいる僕には、
素朴なんて知らないことが、
僕の「樸」で、ありのままになる。
でも、それはまったく間違っていて、
納得できない、って考えている。
僕たちは、素朴なんて無理ってことが、
無為で自然になるような、
原罪を背負っている。
―― Strawberry Fields Forever/The Beatles
―― John Lennon 作詞、Paul McCartney 作曲、
―― 1967、Parlophone
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2017年11月12日 12:04 |
- 荘子
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青梗菜さん、こんばんは!!^^
自分が素朴ではないということに気づけることが第一歩なのでは。故に、自分は素朴だと思うってのが第ゼロ歩なのではと妄想しました。^^;
「原罪」って、よくわかんないっす。罪じゃないと思うけど。
申し訳ございませんが、ここでけさの思いつきを一首。
・そういうふうにできているように見えて、
ああいうときには、ああなる。(一字足らず?)
m(__;;m
- 2017/11/12(日) 22:50:09 |
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- くわがたお #-
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がたおさん、こんにちは。
>自分が素朴ではないということに気づけることが第一歩なのでは。故に、自分は素朴だと思うってのが第ゼロ歩なのではと妄想しました。^^;
ですよね。
自分は切り出したばかりの木のようなものではないと気づく。
故に、自分は切り出したばかりの木のようだと思うのは厚かましい。
素朴ぶっても嘘くさいだけ。
どうしたって図々しくなる罪を背負わされるから、
それは、原罪。
>そういうふうにできているように見えて、
>ああいうときには、ああなる。(一字足らず?)
多いんだか、足りないんだか。
これは、詩、ということにしましょうw。
出来損ないの歌や句は、
それでも失敗した詩ですが、
失敗した自由詩は、ただの散文だと、
萩原朔太郎が言ってます。
定律詩の安易なる最大の理由は、たとへそれが失敗したものと雖も、
尚相當に詩としての價値をもち得られることである。
―― 青猫、萩原朔太郎
- 2017/11/13(月) 18:57:54 |
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- 青梗菜 #De6CjWPI
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