考える、といえば、ブレーズ・パスカル。
人間は考える葦(あし)である。
僕たちは、そんなフレーズを、
知識として、丸暗記して、
でも、少しも考えたりしないけれど。
そんなふうに、知識を頭に詰め込んで、
もの知りになっていくことの価値は、
どこにあるのだろう。
人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。
しかしそれは考える葦である。
これをおしつぶすのに
宇宙全体が武装する必要はない。
一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。
しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、
そのとき人間は、
人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。
なぜなら人間は、自分の死ぬことを、
それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを
知っているからである。
宇宙は何も知らない。
だから我々のあらゆる尊厳は
考えるということにある。
我々が立ち上がらなければならないのは
そこからであって、
我々の満たすことのできない空間や
時間からではない。
だからよく考えることを務めよう。
ここに道徳の原理がある。
明らかに人間は考えるために作られている。
これが彼の品位の一切であり、価値の一切である。
彼のなすべきすべてのことは、
正しく考えるということである。
私は手もなく、足もなく
頭もない人間を考えることができる。
なぜなら頭は足より必要であるということを
我々に教えてくれるものは、経験にすぎない。
しかし、私は思考を持たぬ人間を
考えることはできない。
それは石か獣であろう。
―― パスカル、『パンセ』、断章347、146、339。
デカルトの、我思う、には、
思考に限らず、感情も含まれる。
パスカルは、人としてあるためには、
思考しなければならないという。
人は考えるために作られていて、
それが、人の価値の一切である。
エッセイなら、パスカルのように、
そう言い切りたい。
哲学なら、デカルトに倣いたくなる。
―― パンセ/パスカル 著、津田穣 訳
―― 1952、新潮文庫
彼らは奪えないし 壊すこともない
世界はただ妬むばっかり
―― ありあまる富/椎名林檎
―― 椎名林檎 作詞作曲、2009、EMIミュージック・ジャパン
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2018年07月13日 12:12 |
- 自由
-
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-
| コメント:4
こんばんは、青梗菜さん。
もちろん感じ方は人それぞれですが、
>明らかに人間は考えるために作られている。
これが彼の品位の一切であり、価値の一切である。
とはわたしは思いません。
パスカルが、考える故に、動物を人間よりも下に見ていることに強い抵抗があります。
わたしはしょっちゅうどうでもいいことを考えていますが、それは「下手な考え休むに似たり」に他なりません。
わたしは何にも考えない(?)ネット右翼やヘイトスイーチをする、デマを飛ばす人たちよりも「価値のある」存在では全くありません。
パスカルの人間至上主義は時に鼻もちなりません。
考えない人も同じ人間だとわたしは思っています。
- 2018/07/13(金) 15:49:28 |
- URL |
- Takeo #KrjhbhPI
- [ 編集 ]
Takeoさん、こんにちは。
>>明らかに人間は考えるために作られている。
>これが彼の品位の一切であり、価値の一切である。
>とはわたしは思いません。
そうなんだけど、まずは、あえてパスカルに同意して言うと、
僕は、不完全ではあるけれど、考えることができる。
率直に、乱暴に、純朴に言って、
思考する人のほうが優れている思う♪
>パスカルが、考える故に、動物を人間よりも下に見ていることに強い抵抗があります。
世界を覆っていたのは、キリスト教哲学ですもの。
神は言われた。
『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、
地を這うものすべてを支配させよう。』 ……
―― 『創世記』
人間は差別主義者ですから。
わたしたちは「殺してはならない」という言葉 …… を、
…… 理性を持たない動物にも適用される言葉としても受けとらない。
それは、これらの動物は理性によって
わたしたちの仲間とはなっていないからである。
これらの動物には、
わたしたちと共通の理性を持つことが許されていないのである
(この理由で、創造主の完全に正しい秩序づけによって
これらの動物の生と死はわたしたちの用に従わしめられているのである)。
―― 『神の国』、アウグスティヌス
でも、世界、つまり、キリスト教哲学よりも、
僕は、思考する人のほうが優れている思う♪
…… 精神という点で動物は貧しく、人間は豊かだ ……
貧困と富裕との差異は、程度差をもってはいない。
というのはまさに、本質の差異があるがゆえに、動物の世界は
―― さらに動物が世界という点で、したがって精神の点で
貧しいのだとすれば、動物の一世界、
したがって一つの精神的世界について語ることが
確かにできるはずだ ――
人間世界の一つの種、あるいは一つの度合ではないからだ。
…… 動物にとっての世界の欠如は、純粋なる無ではないが、
だからといって質の違う次元、
たとえば人間の次元におけるある充満へ、
あるいは非―欠如へと、均質な目盛の上で照合されるわけにはいかない。
―― 『精神について』、デリダ
仮に、動物は、人よりも貧しい世界しかもっていないとしよう。
しかし、動物は、持っていないという次元において、
人とは違う世界を持っている。
逆にいえば、人とは別の世界を持ち得るから、
人の世界を奪われている。
それでも、動物が人とは違う世界を持っていても、
その世界は、その精神は、人よりも豊かとは思えない。
それは、人には、当然のことだ。
人は、人の物差ししか持っていない。
人の物差しは、人とは違うものを測れない。
人は、人の物差しを超えるものを測れない。
人の物差しで測ることができるものは、
結局は、欠如だけになる。
>考えない人も同じ人間だとわたしは思っています。
考えない人も同じ人間ですが、
僕が、僕の物差しで測ることができるものは、
結局は、考えない、という欠如だけなのです。
感情を持つためには、理性が必要だろうか?
もちろん、感情を表現するためには、
感情に対応して思考するためには、理性が必要だが。
苦しみ、悲しみ、恐怖や不安の感情を経験するためには、
どれほどの理性を必要とするのだろう。
僕は、動物は、豊かな感情を持っていると思います。
もちろん、考えない人だって言うに及ばず、
さらには、生きとし生けるものぜんぶに行き渡らせてもいい。
なので、
>デカルトの、我思う、には、
>思考に限らず、感情も含まれる。
>パスカルは、人としてあるためには、
>思考しなければならないという。
>エッセイなら、パスカルのように、
>そう言い切りたい。
>哲学なら、デカルトに倣いたくなる。
- 2018/07/13(金) 17:34:25 |
- URL |
- 青梗菜 #De6CjWPI
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ねえ、考えることは偉大ですよね。
パスカルはキリスト者だったけど、神の存在をいくらでも疑う事ができる。
神をあやめることも出来れば、仏を考えることもできる。
仏陀は、動物には尊厳?を与えたが、植物には尊厳を認めなかった!
という訳で、仏陀に不平をもらすことも出来る。
植物状態の人間は、仏陀によれば価値がない事になるから。
といろいろ考える。
- 2018/07/13(金) 19:51:11 |
- URL |
- oki #-
- [ 編集 ]
okiさん、こんにちは。
>仏陀は、動物には尊厳?を与えたが、植物には尊厳を認めなかった!
そうなの?w
差別主義者だなぁ、イケてないな、仏陀は。
>植物状態の人間は、仏陀によれば価値がない事になるから。
をいをい~w。
状態ってゆうてますやん、人間てゆうてるし♪
ほんと、どうでもいいことですけどねw。
一生に一度も考えなくても、何も困らない。
何の役にも立たないから、
揶揄されても、嘲笑されても、仕方がないよなぁ。
一生に一度も考えなくてもいいことを、
毎日毎日考えていると、
我思う、ゆえに我あり、なんて、
ほんのちょっとつぶやいてみたくなりますわ。
- 2018/07/13(金) 21:04:11 |
- URL |
- 青梗菜 #De6CjWPI
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