哲学なら、デカルトに倣いたくなる。
しかし、哲学をするのなら、
僕は、パスカルに倣う。
哲学をする我は、考える我、
もしくは、我は考える、になる。
ところで、哲学書を読むことは、
自分で考えることではない。
難しい本を読む難しさは、
理解する難しさであり、
自分で考える難しさではない。
我、つまり、デカルトについて考えたのが、
デカルトの哲学である。
デカルトは、デカルトと、
デカルトがいた世界について考えた。
デカルトが思う、ゆえにデカルトがある。
我、つまり、僕については、
僕が考えるほかはない。
僕が思う、ゆえに僕がある。
僕の代わりに誰かが考えても仕方がない。
もとより、僕がいる現在の世界なんて、
そんなものは、
もうデカルトは考えてくれない。
遠くに旅立った君の 証拠も徐々にぼやけ始めて
目を閉じてゼロから百までやり直す
―― みなと/スピッツ
―― 草野正宗 作詞作曲、2016、Universal Music
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2018年07月14日 00:03 |
- 自由
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| コメント:2
デカルトは難しくないんですよね。彼は読者の事を考えてくれている。
「省察」で、第二省察の初めに「昨日の省察」とありますよね。
つまり、第一省察が、「昨日の省察」で、日記の体裁をしている。
デカルトは、だから好感を持ちますが、しかし、彼の歴史的時代性の限界は仕方ないので、僕らが、新しく、省察するしかない。
其れこそ、認識の枠組みは変わったいるんだから。と、優等生的なコメを、笑
- 2018/07/14(土) 07:05:09 |
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- oki #-
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okiさん、こんにちは。
今でも、新潮文庫の100冊に選ばれているのかな、方法序説。
>しかし、彼の歴史的時代性の限界は仕方ないので、僕らが、新しく、省察するしかない。
デカルトの自由は、デカルトを縛りつけていた世界から、デカルトが離れることで、
そんなの、僕たちとは関係ないもんな。
- 2018/07/14(土) 12:10:38 |
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- 青梗菜 #De6CjWPI
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