自分は、世界と別にあるのではなくて、
世界は、自分も含めて、丸ごと全部である。
バールーフ・デ・スピノザは、そう考えた。
デカルトと違って、
スピノザには、意志の自由はない。
世界=自然=神の中に自分がいて、
自分は世界=自然=神によって決定されている。
それを認識することを自由とするが、
難しくて、僕の手に負えない。
デカルトは、自分の自我だけを考えて、
疑わしい他人の自我は、
世界の側に追いやったけれど、
イマヌエル・カントは、
我思う、を、我々思う、にした。
やっと他人を巻き込んできた。
そして、思うだけでは不十分で、
各自は、各自の理性によって各自を律して、
各自が各自を決定する。
だんだん解りやすくなってきた。
幅広い心を くだらないアイデアを
軽く笑えるユーモアを うまくやり抜く賢さを
―― イージュー☆ライダー/奥田民生
―― 奥田民生 作詞作曲、1996、Sony Records
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2018年07月19日 20:07 |
- 自由
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カント出ました。次はヘーゲル、笑。
カントは「この世界のうちでも、外でも、無条件に善いものは善き意思しかない」と断言した。
この世界の外でも〜要は、善き意思は神の意思だという前提がある。
分かりやすいことこの上ないと。
- 2018/07/19(木) 21:54:40 |
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- oki #-
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がたおさん、こんにちは。
>私は、、なってきていなのですけど。
さーせん、面倒くさかったので、
4時間目のチャイムが鳴ったときの、
先生の捨て台詞みたいな感じで。
板書は、
デカルト、1596 - 1650
自分 vs 自分以外
自分=精神 vs 自分以外=物質
自分以外=世界=自然
自分+自分以外=全部・神
スピノザ、1632 - 1677
世界=自然=神
私を含む世界・自然・神=全部
カント、1724 - 1804
デカルト的な「我思う」 ―> 「自分で律する」、自分の行為を自分で決定する
デカルト的な自我 ―> みんなに共通の人間の理性
- 2018/07/20(金) 11:42:14 |
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- 青梗菜 #De6CjWPI
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