デカルトは、世界の外にいる。
世界から切り離されて、
何でも自由に思うことができる。
デカルトの自由は、まったくの自由で、
対象を選ばず、手当たり次第に妄想していい。
例えば、他人を自動機械にすることさえも。
世界に対しては、やみくもに、
無差別に、照準を定めずに自由だが、
デカルトには、自分と世界を制する神がいる。
自分と世界で、全部になるのなら、
全部を束ねる神がいる。
デカルトが世界の外に飛び出しても、
そこで待ち受ける神にぶち当たる。
自分と世界は分けることができても、
全部と自分の関係は何か。
全部を統べるのが神だから、
スピノザには、どこにでも神がいる。
全部と自分は対立できない。
カントは、理性によって自分を律し、
自らの行為を決定することを自由とした。
デカルトの、我思う、だけでは足りない。
考えて、行わなければ、自分が決まらない。
自分で律する、自分の行為を自分で決定する、
僕たちが考える自由に近づいてきた。
カントが考える、僕たちに共通の理性は、
神に照準された理性で、
僕には、不自由に思えるような、
遠慮がちな自由ではあるけれど。
幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて
隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた
―― 空も飛べるはず/スピッツ
―― 草野正宗 作詞作曲、1994、Polydor
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2018年07月21日 19:06 |
- 自由
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確かに、カントの立場も「自由以前」だと。
良く考えれば、皆同じ善なり正義に辿り着くとカントは考えた。
神の支配する世界、叡智界こそが、人間の自由の世界だから。
それじゃ、なんでこんなに相異なる思想があるのか説明がつかない!
障害者を「心失者」と呼び、存在しなくていいなどと考える植松被告のような思想が生まれる理由が説明できない←すみません、NHKスペシャル見たばかりなので〜
- 2018/07/21(土) 22:04:27 |
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- oki #-
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okiさん、こんにちは。
>障害者を「心失者」と呼び、存在しなくていいなどと考える植松被告のような思想が生まれる理由が説明できない
ホロコーストだな。
不幸な子どもの生まれない県民運動、不幸な子どもを産まない道民運動、
なんてのも、根っこは同じ。
障害者は社会には無用なんだ。
でも、無用な人を殺.してもいいのなら、
老いて弱ったときの、僕たち全員を殺.すことも許容されていい。
非生産的な人の存在が許されないのなら。
発想が民営化なのかな。
経済効果や経済効率が最優先される価値観、
つまり、国の民営化♪
国は国営化のままでいいと思う。
- 2018/07/22(日) 11:17:47 |
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- 青梗菜 #De6CjWPI
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