>塗料の盛り研ぎ。
>アルコールで拭いて、
>ホルツのカラータッチを盛る。
>Z7T、パールホワイト。
>10か所くらい。
つまらないこと、に違いない。
少しも学問的ではなく、
とりわけ、哲学なんて学際は欠片もない。
でも、そこに哲学がなければ、
どこにあるのだろう。
僕の身の周りになければ、
どこかで、誰かが、
難しいことを言い合っていても、
僕に何の関係があるのだろう。
すぐそこにでも見つかるものでなければ、
どこで見つけるのだろう。

げみ
哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。
もし論理学の深遠な問題などについて、
もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか
哲学が君の役に立たないのなら、
また、もし哲学が日常生活の重要問題について
君の考える力を進歩させないのなら、
そして、もし“国民性”というような
危険きわまりない語句を
自分勝手な意味にしか使えないジャーナリスト程度の良心くらいしか、
哲学が君に与えるものがないとしたら、
哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。
御存知のように、“確実性”とか
“蓋然性”とか“認識”などについて、
ちゃんと考えることは難しいことだと思う。
けれども、君の生活について、また他人の生活について、
真面目に考えること、考えようと努力することは、
できないことではないとしても、
哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。
その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、
学問的にははりあいのないことだし、
どっちかというと、まったくつまらないことが多い。
けれども、そのつまらない時が、
実は、もっとも大切なことを考えている時なんだ。
―― ウィトゲンシュタイン/ノーマン・マルコム 著
―― 板坂元 訳、1998、平凡社
平日だけど はれ着をきたのよ 人形だいて 日暮れに帰ったワ
おかみさん達は 白い目でにらんだ まるでこの私を ドロボーみたいに
―― ろくでなし/小島麻由美
―― Salvatore Adamo 作詞作曲、岩谷時子 訳詞、1964、PONY CANYON
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2021年10月03日 00:00 |
- ラパン/ミニ
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| コメント:2
そうなんですよね。
例えば、カントにしたって、その哲学の根本は、自由は存在するか?必然的存在は存在するか?というアンチノミー論の第三、第四アンチノミーにあった訳で、それを解く上で認識論とかが必要だったから、超越論的観念論とか、こ難しい議論をしたとも取れる訳で、実際3つの批判書はいずれも宗教をもって終わる。ということは、宗教こそがカントの結論と取れる訳で、カントにとって道徳と宗教は相即してますから、つまりは人間の生き方の問題こそ、カント哲学の根本と思う。
哲学とは生き方の問題なんですよね。
そして、それは日常生活の些細な振る舞いを離れてはあり得ないから、我々の行動一つ一つがその人の哲学を示している。
クルマの洗い方一つをとっても、どう洗うかどこまで洗うか、それがその人を示す。
人は、ああこの人はこういう人なんだ、多分仕事でもこうだろう、と推測できる。
行為が人を表すので、行為を離れて頭の中の考えが人を表す訳ではない。
ここが重要で、行為を離れた思考なんて何の意味がありますか?
ですから、哲学とは、単に難しいことを考えることではなく、それが行為に表されてはじめて意味を持つ。
カントの認識論が実は行為論、さらには生き方の問題と直結しているから、認識論は意味を持つ訳で、認識論だけ取り上げて、超越論的統覚がどうこう、産出的構想力がどうこうと細部だけ議論しても、それは哲学学者の戯れなんですよね、実は。
- 2021/10/03(日) 22:48:08 |
- URL |
- oki #ibS8y52A
- [ 編集 ]
okiさん、こんにちは。
>哲学とは生き方の問題なんですよね。
ですよね。
>そして、それは日常生活の些細な振る舞いを離れてはあり得ないから、我々の行動一つ一つがその人の哲学を示している。
意志よりも、行動が語ります。
>クルマの洗い方一つをとっても、どう洗うかどこまで洗うか、それがその人を示す。
>人は、ああこの人はこういう人なんだ、多分仕事でもこうだろう、と推測できる。
何につけ、目標の設定が高いのね。
そんな人は、少しずつ、
何でもできる人になって行く。
>行為が人を表すので、行為を離れて頭の中の考えが人を表す訳ではない。
>ここが重要で、行為を離れた思考なんて何の意味がありますか?
やりたくないことはしない、なんてのは、
快、不快で行為が決まるから、思考なんていらない。
それくらいは、猫にでもできてます。
カントの自由は、やりたくないことでもやる自由、
行為の原理の立て方の自由、生き方の自由。
>ですから、哲学とは、単に難しいことを考えることではなく、それが行為に表されてはじめて意味を持つ。
ていねいに取り組む人は、何だってていねいにするし、
努力する人は、何だって努力する。
思考が働いていることと、行為することは、
実は、同じ事態なのよ。
>カントの認識論が実は行為論、さらには生き方の問題と直結しているから、認識論は意味を持つ訳で、認識論だけ取り上げて、超越論的統覚がどうこう、産出的構想力がどうこうと細部だけ議論しても、それは哲学学者の戯れなんですよね、実は。
技術的な議論に走ると、リアルな生活を忘れてしまうのかもね。
- 2021/10/04(月) 01:08:12 |
- URL |
- 青梗菜 #De6CjWPI
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