個人的懐疑に基づいた論証(argument from personal incredulity)は、
ある前提を「個人的に」疑問に感じたことを理由として
その前提が偽であると表明すること、
あるいは逆にある前提を好ましいと感じたことを理由として
真であると表明することをいう。
―― ウィキ/無知に訴える論証
しかし、諸君、自分の病気を自慢するものがどこにあろう?
しかも、それを種に威張るなんて、
もってのほかの話である。
さて、借問するが、自分自身の屈辱感の中にさえ、
快感を見いだそうなどと企らむような人間が、
はたして多少なりと自己を尊敬し得るものだろうか?
くり返していうが、とくに強調してくり返しておくが、
すべて直情径行的の人間や活動家は、
彼らが鈍感で浅薄な人間であればこそ、
そのために実行的にできているのだ。
これをどう説明したらよかろうか?
第一、開闢以来ただの一人でも、
単におのれの利益のみのために
行動した人間があるだろうか?
人間というものは、
みすみす自分の本当の利益を承知しながら、
それを二の次にしてしまって、
だれにも何ものにも強制されているわけでもないのに、
別な冒険の道へ突進してゆく。
これを証明する無数の事実を、
いったいどうしたらいいというのだ!
いったい人間の利益というものは、
絶対正確に計量されているだろうか?
今までいかなる分類にも当てはまらなかったのみならず、
全体に当てはまり得ないような利益が、
はたして存在しないだろうか?
諸君、わたしの承知している限りでは、実際のところ、
諸君は人間の利益台帳を編成するのに、
統計表の数字や経済学の方式の
平均数をとって来たのではないか。
そこで、今度は諸君におたずねするが、
こういう奇妙な性質を賦与された動物としての人間から、
いったい何を期待することができよう?
まあ、試みに、ありとあらゆる地上の幸福を
人間に浴びせかけ、幸福というものの中に
頭ごとずんぶり沈めてしまって、その幸福の表面に、
まるで水面みのもにうかぶ泡のようなものが、
ぶくぶくと浮きあがるような目にあわして見たまえ、
また人間に十二分の経済的満足を与えて、
ただぐうぐう寝たり、生姜餅を食ったり、
世界歴史の永続を心配したりするよりほかに、
仕事がないような境遇に置いて見たまえ、
―― それでもやつは、その人間先生は、
ただ恩知らずな気持ちのために、
穢らわしい天邪鬼あまのじゃくのために
厚顔無恥なことをしでかすに相違ない。
―― 地下生活者の手記/ドストエーフスキイ全集 5
―― 米川正夫訳、1970、河出書房新社

―― Sedat Girgin
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2022年03月19日 00:00 |
- 自分らしさ
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