法廷における青葉被告の当事者性とは、
京アニの事件の前から備わっていたものではなく、
事件の当事者として、事件について問われて、
当事者として語り、当事者として聞かれて、
少しずつ獲得されて行くものである。
青葉被告は、当事者性というなにやら本質めいたものを、
自ら、予め備えていたわけではなく、
それは、むしろ、自分ではなく、他人から、
事件の当事者とみなされることによって、他人から、
事件に関して付与されるものになる。
被告人という観点から青葉被告を眺めることで、
事件に関することだけが切り取られて、
一方的に、一時的に与えられた当事者性は、
その実質は法廷における、健常者たちの主観の合意である。
その場限りの当事者性が使い捨てられた後で、
青葉被告は自分にどんな当事者性を与えるのだろう。
テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2023年09月16日 09:00 |
- 自分らしさ
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青梗菜さん、こんばんは!!^^
>少しずつ獲得されて行くものである。
最初から当事者、てか殺人事件の超本人だよね。なにぶっこいてくれちやつてるの?みたいな感じ?
- 2023/09/16(土) 20:27:41 |
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- くわがたお #-
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がたおさん、こんにちは。
>最初から当事者、てか殺人事件の超本人だよね。なにぶっこいてくれちやつてるの?みたいな感じ?
僕たちは、青葉被告を、放火殺人事件の被告人って観点だけから観るし、
それ以外の視点は余計ですから、
訊かれたこと以外は黙ってろ、って感じです。
その視点以外のことは知らね、ってことです。
青葉被告は、結果はどうであれ、もうすぐ、
被告人という仮の立場からは離れますから、
自分で何かの当事者になることを見つけてもらえればいいと思います。
- 2023/09/16(土) 20:58:58 |
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- 青梗菜 #De6CjWPI
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