こういう話もあります。
ネイティブ・アメリカンの作家が小説を出し、マイノリティの文学として高く評価されていました。
しかし、その作家はまったくの白人でした。
そのことを評論家や編集者たちは誰一人見抜けませんでした。
わたしも見抜けなかった一人です。
- 2014/02/13(木) 14:42:47 |
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- 瀧野信一 #-
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あはは、それはバレる~、どきどきする~w。
弱者を身にまとって、下駄をはきますな~。
なぜ長らく聴覚障害を隠していたのか、
そんな質問に、佐村河内は、
耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと、
それを避けたかった、と答えます。
すばらしい、
もっと高い下駄を履こうとするわけです。
- 2014/02/13(木) 19:50:57 |
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- 青梗菜 #-
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語弊を招くのは承知の上で言うと、
人間には他人の不幸を喜ぶ気持ちが心の底辺に潜んでおり、
それは不幸な人に同情したいという傲慢に結びつき、
この件では作品自体を賞賛した方は間違いではないのですが、
作品に付随したレッテルを賞賛した方は、己の浅ましさを恨むしかない。
己の浅ましさをごまかす為に、マスコミは騒ぎ立てるしかない。
たぶん、解っていながら売っちゃってたわけだし。
本当は、売っちゃった側の人が、謝罪するしかないはずなんですが。
自分の浅ましさを認めずに、何かを批判することは無理でしょう。
騙されちゃって、まいったなぁで、笑い飛ばすのが一番。
大体、人間は本質でなくまとったレッテルが、大好きなんですね。
- 2014/02/13(木) 21:04:50 |
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- 海底まきがい #-
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そう思います。
マスコミは、佐村河内をとことん悪く書いて、
消費して、厭きられて、終わり。
人々は、佐村河内が転落して、ざまあみろで終わり。
震災のときの、絆、と同じ。
乗せられて、消費して、陳腐にして、忘れられて、おしまい。
いつでも、どんなことでも、いつまで経っても、そんなものです。
僕の発想は、いつでも少数派で心細くて、
悔しいけれど、もう慣れっこになりました。
イグ・ノーベル賞は、笑って、馬鹿にするだけではだめで、
考えさせられる研究に対して与えられます。
- 2014/02/13(木) 22:11:11 |
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- 青梗菜 #-
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謝罪文が出ましたが、青梗菜さんはどう読みます?
私のことさえなければ、後世に残る作品と言ってますね。
クラシックでも考えると、モーツァルトのレクイエムは、未完成、他の人が完成させた。
マーラーの第一交響曲巨人は、第五楽章あり、第二楽章に、花の章というのが入っている演奏もある。マーラーの意図は知らない。
有名クラシックだってこんなもの、エンターテイメントだということかな。
- 2014/02/14(金) 00:31:32 |
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- oki #-
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