tetsugaku poet

qinggengcai

アドラーに、嫌われる勇気


アドラーの「嫌われる勇気」についてなら、
どこでもいい、よそのサイトに行ってくれ。
どのサイトも、99%、同じことが書かれている。
つまり、99%が、嫌われる勇気も、
自分の判断基準さえも持っていない。



        僕には、誰かが誰かをほめるのを、
        やめさせようとする気は起こらないが、
        アドラーに言わせれば、
        ほめることも、叱ることも、
        縦の関係で、操作が隠れているらしい。

        どっちが上だとか、下だとか、
        優れているとか、劣っているとか、
        勝ったとか、負けたとか、
        そんなことにつっかかりながら生きている人にとっては、
        当然にそうなるのだろう。

        ほめる、ってことは、ファティックな感想だ。
        ふつうには、他者に対しての好意を示し、
        能力を認めることだと思っている。
        そして、たいていは、平等な関係においてほめ合うが、
        そんなにも、上下を気にしながら生きているのか?

        その価値観は、分かりやすいが、
        まるで、犬みたいな人たちだ。



自由とは、他者から嫌われることらしい。
それについては、まったく同意する。
さしあたり、アドラーから嫌われることが、僕の自由だ。
僕は、アドラーをほめないし、
僕の上にも、下にも置かない。

アドラーに沿って、勇気を持って、そう帰結する。
きっとアドラーは、僕に拍手を送るだろう。



        原因論は、
        Aだから、Bできない。
        目的論は、
        Bできないことを正当化するために、Aを作り出す。

        Aが、Bできないことの正当化のために作られたかどうかは、
        確かめるすべなんてないけれど。
        心理学は、確かめなくてもいい学問だが、
        自己中を許す学問ではない。

        病弱だから、運動ができないのではなく、
        運動ができないことを正当化するために、病弱を作り出す。
        それは、アドラーも違うと言うだろう。
        アドラーの病弱は、作り出されたものではない。

        他の誰かにとっては、
        犬に手を噛まれたことも、
        いじめられたことも、
        作り出されたものではないと思うが、

        他者のそれぞれの痛みを、誰が規定できるのか?


        すべての悩みは対人関係に行き着く、
        それは言い過ぎだと思うが、
        それでも、せめて、身の周りの対人関係くらいは、
        良好に保ってから云々してくれ。

        自由とは、誰からも嫌われることか?



アドラーは、アドラーにとって、
世の中がどうなっているのかを考えた。
誰もアドラーの代わりには、
考えてはくれないから。
そして、僕は、僕にとってのそれを考える。

僕に馬鹿にされた99%のサイトが僕を嫌えば、
それが僕の、嫌われる勇気になるだろう。



  1. 2015年07月16日 17:21 |
  2. 反アドラー
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント

石原慎太郎の小説でなんかあったなあ…
嫌悪がなんとかかんとか…嫌うことが真の行動だ…
とかなんとか云々w

青梗菜さんが99%に対して真の行動を促している?
青梗菜さんが「嫌われる」の立場にいるから、
コメントするなら当然「嫌う」の立場に行かされるw
自分が残り1%であることには、複雑に発生した疑惑から許可が下りない…という理由もありつつw

嫌悪は他者の排斥に移行する。「他者は死への脅迫の保持者」としたのはサルトルだったかな?
と、すると
他者の排斥は自己の維持のため…ということになるから、「嫌悪」とは「自己を死へ誘うもの」へ向けて発生するのかも知れない。

自分を生きようとすると嫌われるのか…。

「阿る(おもねる)」は「へつらう」という意味で、分解すると「小里偏」に「可」と書く。
つまり集落から「可」とされることは「へつらう」ことである。
「へつらう」ことは「へつらうこと」でしか集落にいられないことを示す。他者が居なければ「へつらい」は使う必要がない。「可」は常に相対的、客観的に出てくる評価。これは劣等感に繋がっていると思えるし、ファティックな「褒める」にも繋がっていると思える。

「へつらう」ことをやめて集落から「不可」になることが、青梗菜さんが示した「嫌われる」だろうか? で、ないならば99%という数字は出てこない。99%とは「へつらう」人々のことを指していると受け取れる…。
そして、そうならば、青梗菜さんは「へつらう人々」をバカにしているのだから、青梗菜さんの文章を好きな人は
「へつらってはいけない」と誘導される。それは「へつらい」に他ならないのだけど…。

青梗菜さんに対して「好意」を示すことは、とても難しく思えてしまうw
これは、まるで
「僕のこと好きか?」と聞くから、「大嫌いっ」と叫びながら僕に抱きつけ
と要求されているような(笑)

で、抱きついちゃうのが1%かな(笑)
  1. 2015/07/18(土) 10:50:39 |
  2. URL |
  3. 小奈鳩ユウ #0TSJikig
  4. [ 編集 ]

ユウさん、こんにちは。

石原慎太郎、って、
またまたデフォで嫌われている人を出してきたなぁw。

>青梗菜さんが99%に対して真の行動を促している?
アンデルセンの「裸の王様」で、
みんな、王様の服をほめますよねぇ。
見える、見えないで馬鹿を測るのですから、
見えていれば、じゅうぶんで、
ほめることはないのにね~w。
だから、ほめる、ってことは、きっと、
分かっている、ってことなのです。
みんなで、佐村河内の曲をほめたのと同じです。

でね~、王様は裸だよっ、と言った子どもは、
分からなくていい、そう言ったのです。
嫌われると思いますよ~w、
みんなで作り上げた知ったかぶりの虚構を壊してしまったから。
>青梗菜さんに対して「好意」を示すことは、とても難しく思えてしまうw
いえいえ、ほめてやってくださいよ~。
1%くらいは抱きついてくれないと、
子どもは、集落から排斥されてしまうのですよ~。

人は、わけが分からなくても、ほめます、可とします。
自分と違っていても、同じだと言います。
分からなければ、分からない、自分と違うなら、違う、
僕は、正直なだけですよっ!w

分からない、僕とは違う、
もう1回、それを書いてアドラーは終わりです。
アドラーにしたって、
衒ったことを言って、ウケを狙わないと、
ニューヨークで、講演家としては成功しませんからね~。

馬鹿と思われてもいいし、分からなくてもいい、
王様は裸だよっ!
  1. 2015/07/18(土) 21:35:48 |
  2. URL |
  3. 青梗菜 #-
  4. [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック URL
https://qinggengcai.blog.fc2.com/tb.php/942-adbc366e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)